折り鶴に込めたメッセージ
大石秀邦(おおいし ひでくに) 1959年11月生まれ

大石秀邦さん・65歳。
県立賀茂高校同窓会の事務局長を務め、教師として今も母校の教壇に立つ、被爆2世。
原爆投下直後の広島に入り、懸命に救護にあたった東広島の若者たちの手記等をホームページで公開。当時の若者たちの原爆や戦争の体験を、今の若い世代にも伝えている。
 
2025年2月20日放送
 
 
 
被爆者から「あの日の記憶」の継承を託された被爆2世
植岡進次(うえおか しんじ) 1956年3月生まれ

植岡進次さん・68歳。
被爆者とその家族でつくる「福山市原爆被害者友の会」の事務局長を務める被爆2世。
母・淳子さんは、13歳の時、爆心地からおよそ2キロの広島駅のホームで被爆。
福山市の被爆者団体の役員を務めるなどしたが、被爆体験を家族に語ることはないまま亡くなった。母の死後、「福山市原爆被害者友の会」で活動を続けている植岡さんは、おととし亡くなった被爆者・池尻博さんの体験をもとにした紙芝居を使って、子供たちに被爆者の体験を伝えている。
 
2025年1月27日放送
核兵器の恐ろしさを伝える被爆2世の思い
角田拓さん(かくだ たく) 1963年5月生まれ

角田拓さん・61歳。
県立高校の教師を務める被爆2世。
自宅で介護する母・みつえさん(90歳)は、10歳の時、爆心地から約2.5キロの牛田国民学校の校庭で被爆。
腕や首にケロイドが残り、その後、就職や結婚等で差別を受ける。
角田さん自身は、長年、被爆2世運動に携わり、被爆2世訴訟にも原告として参加。
被爆者の高齢化が進む中、改めて、被爆2世として、核兵器の恐ろしさなどを訴え続けている。
 
2025年1月22日放送
亡き妹を思い被爆体験の証言つづける

植田規子さん(うえだ のりこ) 1931年9月生まれ

 

植田規子さん・93歳。
県立広島第一高等女子学校(現・県立広島皆実高校)に通っていた当時、建物疎開に出ていた2歳下の妹を、原爆で亡くす。
本人は、学徒動員で、爆心地からおよそ1.8キロの西区観音の印刷工場で被爆。
30代のころから依頼があるたびに、修学旅行生らに自身の体験を語ってきた。
今年7月には、母校・広島皆実高校が進める被爆体験を語り継ぐプロジェクトにも参加。

 

2024年12月9日放送
 
生死もわからぬ人を踏み分けて逃げた記憶
元原爆資料館館長 原田浩さん(はらだ ひろし) 1939年7月生まれ

元原爆資料館館長の原田浩さん・85歳。
6歳の時に広島駅で被爆。
生死もわからない人たちを踏み分けて進んだ忘れられない記憶が…。
その後、広島市の職員となり、原爆資料館の館長を務める。
およそ150か国の要人を案内。
1995年には、当時の天皇、皇后両陛下を案内し、被爆体験も語る。
日本被団協のノーベル平和賞を受け、体験を語り、伝えていく重要性を改めて感じている。
 
2024年11月19日放送
 
被爆者と同じ立場で寄り添い続ける80歳相談員の思い
被爆者相談員 小林貴子さん(こばやし あつこ) 1943年12月18日生まれ

被爆者相談員の小林貴子さん・80歳。
被爆者として同じ立場の人たちの相談に応じています。
小林さんは爆心地からおよそ2.8キロで被爆。1歳7か月でした。
記憶がなく体験を語ることはできませんが、手帳の申請の手助けや被爆者の相談に応じてきました。
若い被爆者とされる80歳の小林さんは、被爆2世が被爆者相談を受けついでほしいと語っています。
 
2024年3月7日放送
 
 
中岡穂子さん 看護学生が見た惨状
三原市在住の中岡穂子さん(94)は太平洋戦争で戦死した父親の敵を討つため、従軍看護婦を志した。看護学生だった16歳のとき、救護活動のため広島市へ行き入市被爆。
劫火に包まれた広島では、治療と呼べるものはできなかった。
焼け野原で出会った2歳くらいの男の子の姿が今も忘れられないという。
 
2023年10月3日放送
 
 
 
 
 
 
子どもに伝えるヒロシマ「せっちゃんの夏」
佐美節子さん(81)は3歳の時、爆心地から4.1㎞の祇園町(現在の広島市安佐南区祇園)で被爆した。
そして、実の家族のように慕っていた近所のお兄ちゃんは学徒動員中に被爆し亡くなった。
宇佐美さんは今、戦争の現実を若い人たちにも知ってもらおうと、自らの被爆体験を紙芝居にして子どもたちに読み聞かせている。
 
2023年7月14日放送
 
 
 
 
 
八幡照子さん 鮮烈な記憶 自分の言葉で伝えたい
8歳の時の記憶をたどり平和のために世界一周をして被爆証言した1人の女性。八幡照子さん85歳。爆心地からおよそ2.5キロの広島市西区で被爆した。8歳だった。
彼女の忘れられない光景がそこにあった。
 
2022年10月5日放送
 
 
 
 
 
 
 
病そして故なき差別と闘ってきた人生
江田島市に住む川中宏子さん(77)が被爆したのは現在の中区舟入幸町。
生後2か月の時で記憶はありません。
その後、今の安芸太田町に転居。体に異変を感じたのは、11歳の頃でした。
頭の中が霧がかかったようになり学校の授業が全然頭に入らないようになりました。
50歳の頃から体の不調が目立ち始め、脳腫瘍を手術。
2014年に、「甲状腺機能低下症」で原爆症に認定されます。
被爆者ということで故なき差別を受けたこともあるという
川中さんが戦後77年に思うこととは。
 
2022年9月26日放送
 
 
新たに証言をはじめた被爆者

3歳の時に被爆した脇舛友子さんは、80歳になってはじめて、広島市の「被爆体験証言者」として語り始めました。

劫火に焼かれた広島の街や、母の記憶…。どうすればわかりやすく伝わるか何度も家で練習し、工夫を重ねました。

初めての証言は、修学旅行で広島を訪れた中学生に・・・
証言を終えた脇舛さんには、新たな目標も生まれていました。

2022年5月25日放送

 

 

 

被爆米兵 遺族からの手紙

原爆で亡くなったアメリカ兵の調査で知られる、被爆者の森重昭さんのもとに一通の手紙が届きました。
1945年7月、呉沖で撃墜されたタロア号の狙撃手、バウムガートナー軍曹の遺族からでした。
捕虜として被爆死した大おじのことが知りたい…。
原爆投下から77年。国を越えた、被爆者と遺族の思いです。

 

2022年4月15日放送

 

 

 

 

広島二中1年生 全滅の記憶

広島に投下された原爆の爆心地から500メートルあまり、平和公園の西側を流れる「本川」沿いに慰霊碑があります。
ここには、学徒動員で集まり全滅した、県立広島第二中学校の1年生323人と、教員4人の名前が刻まれています。
実は、前日に作業していたのは2年生でした。
8月5日の夕方、急きょ1年生と入れ替わることになったのです。
ほんの1日の違いが生死を分けた、広島二中の1年生と2年生。
生き残った2年生も、全滅した1年生を忘れることなく、記憶を後生に残そうと願っています。

 

2022年4月1日放送

 

 

伝承者を目指す医大生

広島大学医学部3年生の井上つぐみさん(21)。
学業の傍ら、被爆者の体験を語り継ぐ「伝承者」を目指しています。
伝承するのは原爆で家族を失った被爆者の記憶。時間をかけて原稿作りに取り組み在学中の伝承者デビューを目指します。
井上さんの核廃絶の原動力は広島で入市被爆した曾祖父の存在でした。

 

2022年3月17日放送

 

 

 

 

 

 

免田裕子さん 一瞬で戦災孤児に

免田裕子さん(82)が被爆したのは5歳の時、爆心地から約4キロの地点でした。
父親は戦死、体調を崩していた母親は戦後まもなく亡くなりました。
「親がいないことで馬鹿にされるんじゃない」という曾祖母の言葉を支えに、戦後を必死に生き抜き、
被爆証言を「自分に与えられた使命」と思って続けてきました。
戦争の無情さを訴えてきた免田さんは、今、ロシアによるウクライナ侵攻に胸を痛めます。

 

2022年3月4日放送

 

 

 

坪井直さん 学籍簿に込めた思い

2021年、96歳で亡くなった被爆者・坪井直さん。
坪井さんは被爆後教職に就き、校長まで勤め上げました。

1970年代、坪井さんは教頭として赴任した翠町中学校で被爆直後の学籍簿を発見しました。
そこには原爆で亡くなった生徒の名前が書かれていましたが、「戦災死」としか書かれておらずどのような状況で死亡したのか記述がありませんでした。
そこで坪井さんが生徒とともに取り組んだのは、家族などから当時の状況を聞き取り、学籍簿の空白を埋める作業でした。

 

2022年2月18日

 

 

被爆者でありながら感じた「後ろめたさ」

広島県の被爆者、大越和郎さん(81)。
5歳のとき、戸山村(現・広島市安佐南区)にあった自宅の庭先で妹ともに被爆した。
今でも忘れることはできない閃光や黒い雨など、あの日の記憶を語る。
大越さんが抱えていた「後ろめたさ」の理由とは。

 

2022年放送

 

 

 

 

 

 

悲惨な戦争の記憶を次世代に語り継ぐ 
高品健二さん 84歳

高品健二さんは、8歳の時に爆心地から2.5km離れた自宅のそばで近所の友達と遊んでいた時に被爆。
友達は上半身にやけどを負い、ガラスの破片がびっしり刺さっていた。
その友達の手を引いて家に帰ると、母が柱の下敷きになっていた。
友達は3日後に亡くなり、母も髪が抜け、歯ぐきから血が出て、1週間後に亡くなった。
軍人だった父も、すでに戦地で亡くなり、親戚の家に身を寄せるが、肩身の狭い日々を過ごした。
母方の叔父の支援を受け理容師の道に進み自分の店舗を持つまでになる。
理容師を引退した後は故郷の広島で過ごし、「戦争の記憶を語り継ぎたい」と語り部として活動する。

 

2022年放送

被爆者・坪井直さんの遺志を継ぐ若者

10月24日、被爆者・坪井直さんがこの世を去った。
原爆の閃光に焼かれたのは20歳の時。以来、被爆者運動の先頭に立ち核兵器廃絶を訴え続けた。
2016年、福山市の盈進ヒューマンライツ部が坪井さんの半生を聞き取り一つの冊子にまとめた。
坪井さんとヒューマンライツ部の出会いは2015年。
被爆者団体の集いで被爆4世の部員が発表したスピーチがきっかけだった。
卒業後、冊子の製作に携わったメンバーの中には学生団体を設立した大学生もいる。
あきらめないー。その言葉を胸に、核なき世界の実現に向けて歩む若者の姿を伝える。

 

2021年放送

苦しかった時代を知ってほしい 
被爆者 佐々木フジ子さん 95歳

佐々木フジ子さん(95)は終戦の前年、安芸太田町の親元を離れ、
広島市安佐南区祇園の軍需工場で働き始めました。
工場は爆心地からおよそ4キロメートルのところにあり、
8月6日、佐々木さんは工場内で「ピカ」に遭遇しました。
キノコ雲を目の当たりにし、恐怖に襲われたといいます。
市内中心部から被爆した無数の人々が押し寄せ、工場は臨時の救護所となったのです。
佐々木さんはケガ人の手当に追われました。
ガラスの破片が刺さったまま呆然と立ち尽くす少女、
急に陣痛が始まった妊婦の出産の手伝い…
今も地獄のような記憶が鮮明に残る佐々木さんは、戦争を知らない世代に、
どんな時代だったのか知ってもらいたいと願っています。

2021年放送

被爆者の「無念」を語り継ぐ
元デザイナー 長尾ナツミさん 91歳

広島市に住む元デザイナーの長尾ナツミさん(91)は爆心地から1.4キロで被爆しました。
当時、進徳高等女学校の2年生。学徒動員先に向かうため校庭に集まっていたときでした。
長尾さんは全身を焼かれ、ただれ落ちた皮膚が地面につかないよう両腕を挙げ、劫火を歩き続けました。
後遺症への恐怖から結婚や出産をあきらめ、一人で生きていく術として選んだのがデザイナーの道でした。
国際的なファッションデザイナー森英恵さんの助手となり、世界中を飛び回りました。
被爆証言を始めたのは75歳のとき。それまで決して被爆体験を口にすることはなかった長尾さんの背中を押したのは師と仰ぐ森さんでした。
長尾さんが被爆証言に込める思い。それは一瞬で未来や希望を奪われた被爆者たちの無念です。
一発の原子爆弾がもたらしたその苦しみを、世界や後世に語り継ぎます。

2021年放送