広島二中1年生 全滅の記憶

広島に投下された原爆の爆心地から500メートルあまり、平和公園の西側を流れる「本川」沿いに慰霊碑があります。
ここには、学徒動員で集まり全滅した、県立広島第二中学校の1年生323人と、教員4人の名前が刻まれています。
実は、前日に作業していたのは2年生でした。
8月5日の夕方、急きょ1年生と入れ替わることになったのです。
ほんの1日の違いが生死を分けた、広島二中の1年生と2年生。
生き残った2年生も、全滅した1年生を忘れることなく、記憶を後生に残そうと願っています。

伝承者を目指す医大生

広島大学医学部3年生の井上つぐみさん(21)。
学業の傍ら、被爆者の体験を語り継ぐ「伝承者」を目指しています。
伝承するのは原爆で家族を失った被爆者の記憶。時間をかけて原稿作りに取り組み在学中の伝承者デビューを目指します。
井上さんの核廃絶の原動力は広島で入市被爆した曾祖父の存在でした。

 

 

 

免田裕子さん 一瞬で戦災孤児に

免田裕子さん(82)が被爆したのは5歳の時、爆心地から約4キロの地点でした。
父親は戦死、体調を崩していた母親は戦後まもなく亡くなりました。
「親がいないことで馬鹿にされるんじゃない」という曾祖母の言葉を支えに、戦後を必死に生き抜き、
被爆証言を「自分に与えられた使命」と思って続けてきました。
戦争の無情さを訴えてきた免田さんは、今、ロシアによるウクライナ侵攻に胸を痛めます。

坪井直さん 学籍簿に込めた思い

2021年、96歳で亡くなった被爆者・坪井直さん。
坪井さんは被爆後教職に就き、校長まで勤め上げました。

1970年代、坪井さんは教頭として赴任した翠町中学校で被爆直後の学籍簿を発見しました。
そこには原爆で亡くなった生徒の名前が書かれていましたが、「戦災死」としか書かれておらずどのような状況で死亡したのか記述がありませんでした。
そこで坪井さんが生徒とともに取り組んだのは、家族などから当時の状況を聞き取り、学籍簿の空白を埋める作業でした。

被爆者でありながら感じた「後ろめたさ」

広島県の被爆者、大越和郎さん(81)。
5歳のとき、戸山村(現・広島市安佐南区)にあった自宅の庭先で妹ともに被爆した。
今でも忘れることはできない閃光や黒い雨など、あの日の記憶を語る。
大越さんが抱えていた「後ろめたさ」の理由とは。

悲惨な戦争の記憶を次世代に語り継ぐ 
高品健二さん 84歳

高品健二さんは、8歳の時に爆心地から2.5km離れた自宅のそばで近所の友達と遊んでいた時に被爆。
友達は上半身にやけどを負い、ガラスの破片がびっしり刺さっていた。
その友達の手を引いて家に帰ると、母が柱の下敷きになっていた。
友達は3日後に亡くなり、母も髪が抜け、歯ぐきから血が出て、1週間後に亡くなった。
軍人だった父も、すでに戦地で亡くなり、親戚の家に身を寄せるが、肩身の狭い日々を過ごした。
母方の叔父の支援を受け理容師の道に進み自分の店舗を持つまでになる。
理容師を引退した後は故郷の広島で過ごし、「戦争の記憶を語り継ぎたい」と語り部として活動する。

被爆者・坪井直さんの遺志を継ぐ若者

10月24日、被爆者・坪井直さんがこの世を去った。
原爆の閃光に焼かれたのは20歳の時。以来、被爆者運動の先頭に立ち核兵器廃絶を訴え続けた。
2016年、福山市の盈進ヒューマンライツ部が坪井さんの半生を聞き取り一つの冊子にまとめた。
坪井さんとヒューマンライツ部の出会いは2015年。
被爆者団体の集いで被爆4世の部員が発表したスピーチがきっかけだった。
卒業後、冊子の製作に携わったメンバーの中には学生団体を設立した大学生もいる。
あきらめないー。その言葉を胸に、核なき世界の実現に向けて歩む若者の姿を伝える。

苦しかった時代を知ってほしい 
被爆者 佐々木フジ子さん 95歳

佐々木フジ子さん(95)は終戦の前年、安芸太田町の親元を離れ、
広島市安佐南区祇園の軍需工場で働き始めました。
工場は爆心地からおよそ4キロメートルのところにあり、
8月6日、佐々木さんは工場内で「ピカ」に遭遇しました。
キノコ雲を目の当たりにし、恐怖に襲われたといいます。
市内中心部から被爆した無数の人々が押し寄せ、工場は臨時の救護所となったのです。
佐々木さんはケガ人の手当に追われました。
ガラスの破片が刺さったまま呆然と立ち尽くす少女、
急に陣痛が始まった妊婦の出産の手伝い…
今も地獄のような記憶が鮮明に残る佐々木さんは、戦争を知らない世代に、
どんな時代だったのか知ってもらいたいと願っています。

被爆者の「無念」を語り継ぐ
元デザイナー 長尾ナツミさん 91歳

広島市に住む元デザイナーの長尾ナツミさん(91)は爆心地から1.4キロで被爆しました。
当時、進徳高等女学校の2年生。学徒動員先に向かうため校庭に集まっていたときでした。
長尾さんは全身を焼かれ、ただれ落ちた皮膚が地面につかないよう両腕を挙げ、劫火を歩き続けました。
後遺症への恐怖から結婚や出産をあきらめ、一人で生きていく術として選んだのがデザイナーの道でした。
国際的なファッションデザイナー森英恵さんの助手となり、世界中を飛び回りました。
被爆証言を始めたのは75歳のとき。それまで決して被爆体験を口にすることはなかった長尾さんの背中を押したのは師と仰ぐ森さんでした。
長尾さんが被爆証言に込める思い。それは一瞬で未来や希望を奪われた被爆者たちの無念です。
一発の原子爆弾がもたらしたその苦しみを、世界や後世に語り継ぎます。