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広島発!夢の通り道 トップページへ


放送内容

第113回
イカ天のまるか食品 フライ一筋で企業成長

放送日:2010年7月17日(土)

お好み焼きに欠かせないイカ天。生のイカより歯ごたえや甘みがあるのでアクセントがつく。食材に加えて珍味としても好まれるイカ天。全国の生産量のおよそ8割が広島県産だ。イカ天のメーカーはなぜか尾道と呉に集中している。
尾道の「まるか食品」はイカ天ではトップシェアを誇り、1日6トンのイカ天を作る。創業者は現在会長の川原鞆一。川原会長は「イカ天作りは手作業で大変だった。これを機械でやったら家内工業から企業製造に変えられると思った。機械が好きで機械化の可能性に賭けた」という。独力で機械化を進め、生産性を上げた。小さな市場だがトップに躍り出た。
現在の社長は息子の川原一展。川原社長は「定番のイカ天にどんな変化をもたらすか。新しい魅力をどう開拓し、付加するのか、それが企業存続の鍵」だと言う。来年創業50周年を迎える老舗メーカーの企業戦略に迫る。

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第112回
スーパーエコシップ誕生物語 中谷造船の挑戦

放送日:2010年7月10日(土)

輸送機関の代表、鉄道は早くから電気駆動を取り入れ電車が主力。もう一つの代表である自動車もハイブリッド車が登場し、人気を集める。電気自動車も出始めた。
電気化が最も遅れているのが船。ほとんどがディーゼルエンジンのままだ。私たちの身近なところに電気で動く船がある。宮島と宮島口を結ぶ宮島航路のフェリー「みやじま丸」だ。
その国内初の電気推進フェリーを作ったのが江田島市能美町にある中谷造船。従業員は協力会社も含め220人。年商およそ55億円の決して大きな造船所ではない。中谷造船の会長、中谷敏義は大学で造船を学び、昭和42年から社長を務め、去年会長になった。平成14年にはケミカルタンカー「千祥」を建造した。電気を動力にして進む国内初の小型タンカーだった。会長の中谷会長は「千祥が進水したときの感動。新しい時代の到来を実感した。」と言う。
今、時代が求める省エネ。小さな造船所が挑んだ大きな挑戦を追った。

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第111回 
豆腐のやまみ 成長のキーワードは変化と挑戦

放送日:2010年7月3日(土)

豆腐屋のイメージがある。朝早くから家族で大豆を茹で、豆乳を搾り、にがりを入れて出来上がる豆腐。だがここは全自動の豆腐工場。三原にある豆腐メーカー「やまみ」だ。少人数で24時間稼動のラインは1時間に5,500丁、一日で25万から30万丁を生産する。
「やまみ」は吸収した小さな豆腐屋からスタートした。豆腐屋を任されたのが現在の社長、山名清。豆腐のことは何も知らなかった。倒産の危機もあった。10年前、三原の工業団地に進出し、発展を目指した。近代的な工場で作り、衛生管理の徹底を図った。大量の産廃物。環境問題を考え、おからの再資源化にチャレンジした。業界初の取り組みだった。
山名社長は「常に新しいこと。昨日の延長ではなく新しい挑戦をする今日でありたい。豆腐屋の概念を崩したい。そのための挑戦を続けたい」と言う。成長を続け、中四国屈指のシェアを獲得する「やまみ」。それを可能にした変化と挑戦を追った。

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第110回 
総合ファッショングループ 
F&Aアクアホールディングスの挑戦

放送日:2010年6月26日(土)

20代女性向け国内アクセサリーのブランド4℃。エフ・ディ・シィ・プロダクツが展開するブランドだ。東京・新宿にあるその直営店は若い客で賑わっている。広島市西区商工センターにあるアスティ。衣料品の卸問屋だ。メーカーから仕入れた商品を展示して小売店に販売する。
流行の最先端をいくジュエリーブランド「4℃」と衣料品卸の「アスティ」。その両方を傘下におくのが持ち株会社「F&Aアクアホールディングス」だ。社長は木村祭氏。アスティの社長も兼ねる。「持ち株会社の本社は東京にあるが、我々の原点は広島」と木村社長は言う。
創業者は尾山悦造。原爆で廃墟と化した広島で闇市から始まり、昭和25年繊維問屋「十和繊維株式会社」を興した。そこから西日本一の地方問屋に成長し、総合問屋として時代やマーケットの変化に対応した。
今年で創業から60年を迎える。十和からアスティ、そして持ち株会社へ。60年の歳月の中で重ねた挑戦とその原点を探る。

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第109回 
広島針のチューリップ 海外展開に活路

放送日:2010年6月19日(土)

いま子供たちが針を使い、裁縫を学ぶのは小学校5年生。ほとんどの子供たちが初めて手にする針のセット。全国の7割を製造するのが西区楠木町にある針メーカー、チューリップだ。
そのセットのセル待ち針には頭の部分にセルロースが付き、名前を書くことが出来る。創業者の原田穆が、「落としたときに誰の物かわかり、小さな道具でも大切に扱う心を育んで欲しい」との思いからそのように作った。
現在の社長は創業者の息子、原田耕太郎。父の姿を見て育ち、家業を注ぐのは自分だと思っていた。「自社ブランドを育て、自分で作ったものは自分で売る。それがメーカーの存在理由だ。」という創業者の口癖を実行する。
海外の見本市にも積極的な展開を図る。ドイツやアメリカ。商品の品質に反響が広がり手ごたえを感じる。ものづくりのこだわりとチューリップブランドの確立。
300年の伝統を持つ広島針に新たな息吹を…。夢は世界に羽ばたくこと。その夢に向かって挑戦を続けるチューリップの企業マインドに迫る。

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第108回 
巨大プールでサラダ菜 野菜工場・日本農園の挑戦

放送日:2010年6月12日(土)

広島県の中央部にある標高400メートルの世羅台地。日中と夜との寒暖の差とその豊かな土壌は、農業の中心的役割を果たしている。農業の新たな展開としての観光農園。春から初夏にかけて世羅の観光農園は大勢の観光客で賑わいを見せる。

世羅町の大型営農団地の一つ百貫山団地。そこに日本農園の巨大なハウスがある。ハウスの中には巨大なプール。そこで水耕栽培されているのはサラダ菜。水温や液肥などは全てコンピューター制御され、5年前から始まった出荷は今や年間500トンにもなる。

日本農園の社長は河原栄。河原は物流機器、油圧リフトテーブルなどの製造業を営みながら、7年前農業生産法人を立ち上げ、サラダ菜の栽培を始めた。河原社長は「絶えず面白いビジネスモデルを探している。絶えずリスクへの覚悟を決めて取り組んでいる。農業への進出も新しいビジネスモデル構築の挑戦だ。」と言う。消費者の食の安全への意識の高まり。需要の拡大。時代の注目を集める植物工場、日本農園の挑戦を追った。

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第107回 
呉で創業セーラー万年筆 受け継ぐ職人の技

放送日:2010年6月5日(土)

万年筆が発明されたのは1809年。200年になる。売り場には輸入品から国産、高価なものから手ごろな価格まで豊富な品が揃う。かつて時計、ライター、万年筆がサラリーマンの三種の神器といわれた時代があった。だが、ボールペンの登場 ワープロやパソコンの普及で万年筆の需要は退潮が続いてきた。最近の傾向は“古臭い"から“かっこいい"に様変わりしているという。ここ数年は万年筆の持つ“自分だけの一本"の魅力が改めて注目され静かなブームだ。
セーラー万年筆のメイン工場は呉市天応町にある。しかし、広島県内で万年筆が作られていることを知る人は多くない。セーラー万年筆天応工場では様々な筆記具の製造が行われている。
秋枝工場長は「この天応工場は万年筆、フェルトペン、ボールペンなど1万種に上る筆記具の主力工場。セーラー万年筆の万年筆製造は来年で100年を迎える。それほどの長い歴史がある」と語る。
創業者は阪田久五郎。阪田は英国留学から友人が持ち帰った土産の万年筆を初めて見て「自分の手で作りたい」と思った。明治44年、28歳の阪田は呉市で万年筆の製造工場をスタートさせた。軍港・呉にちなんでブランドを「セーラー万年筆」ときめ、見よう見まねで手作りした万年筆を売り歩いた。
創業から今年で99年。万年筆はその形、その機能と変化を続けてきた。その進化のリーダー役をセーラー万年筆が果たしてきた。吸引式からカートリッジへの変化。それを可能にしたのもセーラーだった。
時代のニーズを読み取ること。セーラーは次々に日本最初の筆記具を生み出していった。昭和23年国産第1号のボールペンを発売。モダンなデザインがその書き味が話題を呼んだ。新聞は「万年筆の革命児」と表現した。筆ペンの第1号を開発したのもセーラーだった。簡単に筆文字が書け、硯も墨もいらない。昭和47年「筆ペン」の名称で1本100円で発売。ヒット商品になった
3年前「現代の名工」に選ばれた職人がいる。長原宣義さん77歳だ。定年を過ぎたが嘱託職員として働く。主に特注品の万年筆を作ったり、全国から送られてくる修理を手掛ける。ペンを研がせれば日本一といわれる。「万年筆は一生使うもの。使えるもの。そんな万年筆を作るのが仕事」という。
しかし、時代は万年筆からワープロや電子メールへ。熟練の技が作り上げる万年筆は職人たちが技術を積み上げ、書き味の良さを追及してきた。しかし時代は次々に新たな筆記具を生み出し、筆記具そのものも使わない時代に変わる。
「万年筆のトップメーカー、セーラーがこれからも目指すもの」は何か、企業DNAと目指す夢を描く。

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第106回 
世界に発信!マルニ木工 企業再生物語

放送日:2010年5月29日(土)

先月イタリアのミラノで開かれたヨーロッパ最大の国際家具見本市「ミラノサローネ展」。6日間で約30万人のバイヤーらが来場した。広島の洋家具メーカー、マルニ木工は5年前から出展、国際市場への挑戦を続けている。今回も日本の木工技術の高さをアピールした。ミラノサローネ展の規模と影響力の大きさ。マルニ木工の出展商品への関心度の大きさと海外進出の期待が高まる。
国内トップクラスの洋家具メーカーマルニ木工。本社工場は広島市佐伯区湯来町にある。マルニ木工の代表的な商品はクラシック調の家具だ。マルニ木工ならではの製造工程。驚くほど手作業が多い。磨くこと。彫刻部分の仕上げなどだ。高級洋家具を主力商品にするマルニ木工の製造のこだわりがここにある。手触りや肌触りを何より大切にしているという。マルニの代表的ブランドは発売からもう40年以上になる「ベルサイユ」シリーズや30年になる「地中海シリーズ」だ。時代が変わっても変わらない価値がある。そして、2年前から販売を始めた「HIROSHIMA」シリーズ。つなぎ目の滑らかさや木目の美しさ。シンプルなデザインが評判だ。現代感覚が生かされている。
マルニ木工の創業者は山中武夫。昭和3年現在の廿日市に小さな家具製造工場を開いた。昭和曲木工場と名づけた。当時としては難度の高い木を曲げる技術を確立した。手工業だった家具つくりを工業化したい…。創業者が目指したものだ。機械化や分業。そして量産化。高級家具でトップメーカーへの道を歩んだ。平成に入ってバブルが崩壊した。安い輸入家具が入ってきた。老舗家具メーカーの経営は不振を極めた。マルニ木工は地元金融機関や企業の支援を受けて、再建への道を進んだ。マルニの特徴は何か。美しい家具を作ること。家具の原点に戻り、再スタートを切った。
ブナの木目を生かした椅子造り。手作業で仕上げていく。手造りの温もり。そして精緻な造りだ。
山中営業本部長は「目指すのは100年使っても飽きの来ないデザインと堅牢さを備えた家具。それが本当に美しい家具」だという。再建への目処がついた2年前、創業者から数えて6代目の社長に就任した山中武 40歳。「創業からの精神をどう受け継ぎながら、時代にどう対応するのか。潜在ニーズをどう喚起していくか。」が大きな目標だと話す。
創業から82年 トップメーカーの時代との格闘。経営不振から再建へ。その歳月と未来展望を追う。

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第105回 
小さな芽を大きく育てる 広島化成 可能性への挑戦

放送日:2010年5月15日(土)

商品「−600mV」と化粧水・美容液「アクアデト」独自の技術によって水に水素を含ませ、その還元力を生かした水素水。その水素水から化粧水や美容液を作った。水素の還元作用によって紫外線で発生した有害な活性酸素を減らし、保湿効果のあるコラーゲンの減少を防ぐ効果が期待できるという。
ある金融機関の地下駐車場の2基の照明灯。防犯用に設置したものだ。照明灯の真下は白い光、遠くには青い光を発する。青白2色の発光ダイオードを使う複合照明灯だ。2色の発光ダイオードの組み合わせは大学などとの共同研究で開発した。特許も取った。青だけの防犯灯はカメラに写る人相などが実際と異なることから、白色との組み合わせを考えたという。
これらの商品の開発したのは福山市にある工業用ゴム製品やシューズなどの製造で知られる広島化成だ。宮地治夫会長は「企業の発展をどう図るか。創業以来の伝統をまもることも大切だが、時代への新しい挑戦は欠かせない。時代に適応した企業活動が必要。常に動くのが企業だ」というのが持論だ。
昭和22年広島護謨工業を創設した。創業者は会長の父、宮地清一。中古タイヤの磨り減った部分に護謨を足して作る更正タイヤや自転車のゴムチューブを作った。時代が求めるものだった。ヒット商品が生まれたのは昭和28年。ツバメのマークで売ったスポンジサンダル。世界市場に進出した。昭和33年にはゴムの靴が売れた。輸出専用の第2工場を増設した。従業員は3000人を超えた。
いま本社工場にゴム靴などシューズの製造ラインは全く無い。円高が進んだ昭和50年代後半から60年代にかけて国内製造から海外製造にシフトした。年間600万足のシューズは中国や韓国の協力工場で作る。そして輸入する。西浩一社長は「国内生産では価格競争に勝てない。デザインや素材などの研究開発は本社でやるが、製造は全て海外だ」という。
広島化成の国内生産の主力の一つが自動車の窓やボンネットの枠にはめるゴムシール材だ。ウェザーストリップと呼ばれる。これがドアやエンジンルーム内への臭気や水、音なんどの進入を防ぐ。ゴムに代わる新素材を技術開発した。視覚障害者用点字タイル。コンクリートやセラミックが主流だった市場にゴム製で参入した。工事の簡単さ、価格の安さ。いま全国シェア80%を占める。広島化成の年間売り上げ。140億円。宮地会長は「技術力が広島化成の最大の武器だ。ゴム加工で培った技術をどう発展させるか。福山発の技術力を世界に発信したい。ゴム会社の概念を越えて果敢に新しい挑戦を続けたい」という。戦後の復興。始まりはゴム草履。そしていまゴム加工の技術を縦横に生かして挑む環境や化粧品分野への挑戦。広島化成の企業マインドに迫る。

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第104回 
創立50周年の広島修道大学 教育力アップへ新たな挑戦

放送日:2010年5月8日(土)

安佐南区大塚にある広島修道大学。短大を母体に4年制大学に移行して今年50周年を迎える。歌手の吉田拓郎さんも卒業生だ。その代表作「今日までそして明日から」の歌碑が平成20年8月に除幕された。開校50周年を迎えるための記念事業の一つだ。去年の記念事業は巨大な折鶴作り。学生800人が力をあわせて挑んだ。ギネスブックへの挑戦。今年2月、ギネスブックはきさ世界一と認定した。

広島修道大学は5学部9学科と大学院におよそ6000人が学ぶ。私立では中四国地方一番の文科系総合大学だ。

昭和35年、修道短期大学を母体にして4年制の広島商科大学を開設した。地元の社会・経済に貢献したいとの願いだった。場所は現在の西区観音新町。商学部だけの単科大学だった。校名を広島修道大学にしたのは昭和48年。翌49年には現在の沼田キャンパスに統合移転した。そして総合大学への歩みを続けた。


4月1日、1500人の新入生を迎えて入学式が行われた。祝祭ムード(箏の演奏など)。市川学長は、この4月から就任した13代目の学長だ。

少子化。18歳人口は平成4年の205万人をピークに減少を続ける。平成20年代は120万人台で推移し、その後は再び減少に転じると予想される。これは当然大学経営に大きな影響を与える。

修道大学では「人生」「仕事」「キャリア」「働くこと」などについて学び、考え、行動につなぐ授業を実施している。3年前から導入した「修道スタンダード」。一定水準の知識、教養、能力を備えていると評価されるための授業である。

就職支援のための取り組みにも力を入れる。就職が厳しい時代、年々早くなる就職活動の現実。ここうした現状に対応し支援する。

市川学長は「50周年の節目に改めて実施する新しい取り組みや改革。いま始めなければならないことがある」という。大学の理想像実現への取り組みを追う。

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第103回 
食酢メーカー センナリ 目指す本物の美味

放送日:2010年5月1日(土)

「自然の素材にこだわり 無添加 天然地下水で心を込めて造りました」。センナリの会長、大地克伸(74)が筆で書くのはセンナリのキャッチフレーズだ。素材へのこだわり、添加物は加えないこと。商品に心を込めると書く。「体にいい本物の美味しさを求め続けている。その原点が素材へのこだわりであり、無添加であるということ。これを守り続けている」と大地会長は言う。
「センナリ」の本社工場は広島市安佐北区久地にある。広島の中心部から車で30分。豊かな自然が残っている。工場をここに作った訳は「水」だ。「米酢造りに欠かせないのが良い水。ここの地下150メートルには米酢つくりに最適な地下水がある」と言う。自動化が進んだ工場で米酢やソースを作る。地下水の役割は大きい。
センナリの創業者は会長の父、大地至。昭和2年に現在の安佐南区沼田町で米酢つくりを始めた。材料の米と水にこだわったという。その家業を受け継いだのが会長の大地だ。流通革命の嵐が小さなメーカーに襲い掛かった。大型量販店の出現。何より価格の安さが求められた。大手メーカーには対抗できなかった。大手メーカーにどう立ち向かうか…。「高い品質を維持するために原材料の厳選、そのための製造工程の維持。理解してくれる消費者は必ずいる。そういった消費者の要望にこたえるメーカーであり続けよう」とそのとき、大地は決断した。
会長室には生産者との数々の記念写真が飾られている。「必ず生産者を訪ねる。作る人の考えを聞く。そして契約する。自然の素材だけを使う」……大地の信念であり、経営理念だ。契約している生産者の多くがそんな大地の思いの熱さに共感した。「体にいいものを」原材料生産者と製品メーカーに共通する思いがある。
三代目・大地勝史社長は去年4月、父親から社長を引き継いだ。「創業以来守ってきた本物の美味しさの追求。この美味しさを世界に発信したい。世界に通用する美味しさだと思う」とセンナリの理念を守り続けると同時に新たな展開を目指す。センナリの積み重ねた経営理念と、その方向性、新たな夢を描く。

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第102回 
柑橘の島・瀬戸田からの贈り物!ジェラートのドルチェ

放送日:2010年4月24日(土)

開通から11年目を迎えるしまなみ海道。春の観光シーズンを迎え、賑わいを見せる。観光バスがやってきたのは尾道市瀬戸田町のジェラートの店「ドルチェ」ジェラートとはイタリア語でアイスクリームのこと。「ドルチェ」は観光バスが立ち寄る有名な店。人気は高い。観光客はここのジェラードの美味しさをよくしっている。
ドルチェのジェラートの人気の高さはインターネット通信販売、楽天市場の最新データでもわかる。ジェラート部門で上位にランキング。ジェラートが一番売れる7月では過去五年連続でトップになったこともある。根強い人気を誇る。(平成17年―21年)
社長は瀬戸田町生まれの高下功。高校卒業後、東京の製菓学校で洋菓子作りを学んだ。コックや飲食店などの店長の経験を重ねた。そんな高下に転機が訪れたのは平成11年、しまなみ海道の開通だった。高下社長は言う「新しい時代を迎える故郷でこれまでの経験を活かして何かをしたい。思いついたのが島の特産のレモンをつかったジェラート、アイスクリームだった」と。
開通にあわせてジェラートの店を開いた。まだジェラートが珍しかった時代。店はしまなみ海道ブームでやってくる観光客で賑わった。これは開店から2年後の映像。行列が出来た。
店は3000万円を借金をして開いた。その大半を投じたのがこの機械。果汁を練り上げる。ジェラート作りのポイント。いかに手早く練り上げるか。ジェラートの本場イタリア製から取り寄せた。
「やるなら最高の材料と機械。3000万円の借金は大きかった。だがそれを発奮材料にした」高下の考え方がその後を支えた。島から本土での店舗展開。直営店を福山や広島に開いた。空港や高速道路のサービスエリアで売った。人気があつまった。次第にその名が広まった。
ジェラートを核にしながら新たな商品開発に取り組む。「商品化を目指しているのはデコみかんの皮を使った入浴剤。瀬戸田や近郊にある柑橘を生かしてふるさと興しにつなぎたい。故郷の食材の豊かさと瀬戸内海がもたらす感動を一緒にして届けたい」という。ジェラードにかけた感動と夢追い人生を描く。

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第101回 
高品質スニーカーを世界へ スピングルカンパニーの挑戦

放送日:2010年4月17日(土)

府中市は家具や繊維産業は永い伝統を誇る街。ものづくりが盛ん。職人の町でもある。
その町にあるスピングルカンパニー。巨大な靴や工場のイラストが目を引く。ここで人気のスニーカー「スピングルムーヴ」が生産されている。一足一足全てが手作業で作られる。簡潔に興味深い作業内容を紹介する。縫製や成形。熟練の職人。手間隙と手数がかかる。
内田社長は「いま大量生産の靴はほとんどが中国などの海外生産。日本人の細やかな感性を生かして高品質な靴を作ろうと挑戦している」と言う。
スピングルカンパニーの母体は昭和7年創業の日満護謨工業。戦後はゴム草履やゴム底靴などで成長した老舗。昭和50年代にはカジュアルスニーカーのトップメーカーになった。その優れた技術をスピングルカンパニーが受け継ぐ。ゴム靴、カジュアルスニーカーからの転身。その中心にいたのが企画部チーフマネージャーは「長年培ってきた技術力を生かすこと。他社にまねされない自社ブランドを作ること。それが高級な革を使ったスニーカーになった」と言う。
製品化には数々の困難があった。試行錯誤を重ねた。ゴム底と甲の部分の皮。その組み合わせを可能にしたものがある。それが「加硫釜」だ。国内でこの釜を持つのは数社だけだという。スピングルカンパニーの貴重な財産だ。「ゴムと加硫の関係。革とゴムソールの圧着。加硫釜があって初めて可能になること」と担当者は言う。
130度に加熱した加硫釜でおよそ1時間。じっくり熱を加えてゴムの弾力や磨耗に対する強さが生まれる。加硫釜が確かな高品位をもたらす。
4年前から海外の展示会にも出品する。イタリアやフランスの卸売り業者からの注文も届くようになった。フランスの老舗デパート、プランタンも商品を置くようになった。
内田社長は「海外展開。備後のものづくりの優秀性を世界に発信したい。大きな夢の実現に挑戦している」と語る。社名スピングルとは回り道をしながらも、着実に上昇する。そして進化を続けるとの思いを込めた。失敗を糧にしながら備後発世界を目指すスピングルカンパニーの挑戦を追う。

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第100回 金仏壇の三村松 「人の心に響くこと」

放送日:2010年4月10日(土)

夜はネオン街となる広島市流川の真ん中に仏壇店が軒を連ねる通りがある。通称「仏壇通り」。ネオン街は朝には線香がほのかに香る通りに変わる。昔は47軒。いまは9軒になった。
「三村松」本社は仏壇どおりにある。創業は慶応元年、145年前という老舗。朝礼では全社員がお経を唱和する。社員が交代で導師役を務める。「全社員が心を一つにして仕事に取り掛かろうということで、私が提唱して始めた。もう30年以上続けている。本社だけでなく全ての工場や店でもお経を上げている」と三村邦雄社長は言う。
西日本最大級といわれるショールームには数万円から4500万円までの仏壇が並ぶ。殆どが金箔をふんだんに使った金仏壇。安芸門徒と呼ばれるほど広島は浄土真宗の門徒の多い地域。金仏壇が主流だ。三村松は製造、卸売り、そして自らも販売する。
江戸時代に始まったと言われる広島での仏壇作り。広島仏壇と呼ばれた。その伝統産業が「国の伝統工芸品」と認定されたのは昭和53年。伝統の技は現代に受け継がれる。
金箔貼りは金仏壇の生命線。職人が一番緊張するという。正座して貼る。魂を込める。製造部の職人は言う「私はいま16年目だが、学べば学ぶほど深くなる。職人の世界はゴールはない。そんな感じ。そして最も大切なのはいかに魂を込めるかだ」と。
仏壇も時代とともに変わってくる。住環境の変化は著しい。マンションには大きな仏壇を置くスペースはない。住宅の洋風化も進む。時代に沿う仏壇が求められる。小型化と洋風化だ。古からの伝統を受け継いでいくと言う基本は揺るがないが居住空間に相応しいデザインの開発も急務だ。2年前に開店した中区本通りにあるショールームはマンション用に開発した小型仏壇のショールームだ。通りがかりの人が店内を全部見られるようにガラス張りにしロゴもローマ字。三村社長は「こんな店を町の真ん中に作りたかった。仏壇はどうしても死と結びついて暗いイメージを持たれがち。仏さんのいる場所は明るい世界。そのことを知ってもらいたかった」という。創業から145年。金仏壇のトップメーカーである三村松のモットーは心に響くこと。仏壇に込める思いに迫る。

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第99回 地産地消で農業の活性化を! 食と農の間にJAグループ広島

放送日:2010年4月3日(土)

広島市安佐南区中筋にある農産物の直売所「三次きん菜館」。三次農協が運営する。品揃えは豊富だ。とれたて野菜。もぎたて果実。そして生花。新鮮、そして誰が生産したかが分かるバーコードなど商品のトレーサビリティなどが特徴だ。
JAグループ広島のリーダーがJA広島中央会 会長の村上光雄だ。村上こそ「三次きん菜館」の生みの親だ。村上は「都市が豊かになるには、その後背地である農村が豊かでなければならない。そのための地産地消であり、産直市だ」と自らが描いてきた夢の実現を語る。
広島県には今、中山間地域を中心に約1万ヘクタールの耕作放棄地があり、拡大が続いている。小規模農家が多く、高齢化が更に進む危機的な状況だ。農家1戸あたりの平均耕作面積は0.8ヘクタール、全国平均の3分の2だ。農業者に占める65歳以上の比率は37.8% 全国3位。農業所得は全国平均の3分の1にも満たない。村上は「産直市は農家の所得アップにも通じる。農産物直売所による販売で生産者の所得アップを目指す」と言う。
「産直市」は農家が始めた無人市や地域のグループが集まって始めた青空市が元になった。次第に規模を拡大した。食の安全、安心への関心が高まり、農産物直売所が人気を集めるようになった。そして、地産地消の掛け声とともに各地に農協の直売所が誕生した。「最初は地域で農産物を売った。もっと消費者に届けたい。そのためには大消費地の都市部に直売所を作る必要がある。その先鞭をつけたのが三次きん菜館だった」と村上は言う。
広島県の抱えるもう一つの大きな課題。広島県はりんごからみかんまで何でも採れる。だが広島県の自給率は23%。全国平均の41%を大きく下回る。村上は「自給率を高めるための取り組みが大切。そのためには農家が元気になること。地元産を食べてもらうこと。この連動で自給率アップを図る」と打開策を語る。
農業を巡る新たな取り組みの一つが農業の担い手の確保と支援だ。県内農協が地域の特徴を生かして取り組んでいるのが農業塾。ここでは農業の手ほどきから始める。産直市への出荷を目指し実現した人もいる。農産物直売所の発展と広がりが営農の意欲を高める。それが自給率の向上にもつながる。そうすれば農業の活性化が進む。産直市を核にして取り組みを促進させるのが大きな目標だ。
農業活性化に取り組むJAグループ広島の姿を描く。

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第98回 ステーキハウス都 おもてなしが味の決め手

放送日:2010年3月20日(土)

福山市の郊外、春日町。レストランやショッピングセンターが軒を連ねる。高い塀と大きな樹木が特徴の店。駐車場係の丁寧な案内。駐車場の車。多いのが岡山や広島のナンバープレート。
店の名前は「ステーキハウス都」。打ち水をした敷石。そして出迎え。鉄板調理のカウンターに案内され、コックが挨拶し、調理が始まる。嵜本渉社長は「何より大切にするのはもてなしの心。料理のおいしさと同時に人間の魅力が商売に欠かせないものだ」と言う。
34年前、現在の場所で嵜本は妻と一緒に小さなレストランを開いた。夫婦はともに料理専門学校を卒業し、飲食店を開くのが夢だった。店の名前は妻の名前からとった。妻の嵜本都江専務は「きっと流行る。そう信じていた。だが全く流行らなかった。メニューの数は多かったが、何の特徴もなかったからだ」と当時を振り返る。
当時福山で大人気になっていたレストランがあった。オープンキッチンの店だった。それをヒントにした。鉄板調理の店に変えた。オープンキッチンにすることでお客さんの嗜好を知ることができた。そして、会話によってお客さんを知り、何が大切かを知ることが出来た。嵜本は「だから、これで行こうと決めた」という。しかし、ファミリーステーキハウスとしてオープンさせた2店舗目の曙店で発展に水を指す事故がおきた。食中毒が発生し営業停止。眠れぬ夜が続いたという。それが教訓になった。
「店は綺麗に磨き上げていた。器も磨いていた。だが中身、心は磨いていなかった。本当に大切なことは何か、初めて気づいた」と嵜本は言う。
今、店内には、いたるところに手洗いがある。そこでは、コンピュータ制御の殺菌水が出る。衛生管理を徹底した。ミーティングも徹底している。全員が必ず出席する。中身を磨く、心を磨くことの大切さを徹底する。もてなしの心に通じるものが、ここから育つ。
メニューの決定も工夫した。コックが提案する。だがそれで決定するわけではない。関門がある。社長ら役員が全員参加する試食会だ。ここでその日の内容が決まる。味だけではない。食の安全・安心。お客さんが感動する料理とは何か。いま提供しなければならないものは何か。これが、メニュー開発のポイントだという。もうひとつの特徴……レストランがキッチンスタジアムになる。結婚披露宴でも使われる。70人の招待客が対面調理を楽しむ。ここだけの披露宴スタイルだ。感激と感動の輪が広がる。ステーキハウス都の客単価は決して安くは無い。昼食でも 6,000円 を超える。景気回復が進まないいま、低価格志向が加速する。その中で嵜本社長は「経営方針は変えない。目指すものだ」と断言する。レストラン経営成功への歩みを追う。

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第97回 ホームセンターのユーホー 目指せ!地域一番店

放送日:2010年3月13日(土)

暮らしに必要な日用品、園芸、カー用品、インテリアやペット。そして木材や農業資材。宝くじまで販売している……地元ホームセンターの大手「ユーホー」だ。1年に数点しか売れないものでもそろえている。どんな要望にも応えるために用意している……これがユーホーの経営方針だ。
ユーホーの本社は福山市多治米町にある。社長の佐藤哲士は「ホームセンター業界は激しい競争にさらされている。豊富な品揃えが必要なため店舗は大型化する。そうしなければ生き残れない」と言う。
ユーホーの前身は佐藤木材。福山の2箇所に製材所を持ち、下駄の材料を製材した。その後チップの製材を経て、外材を建築用に製材していた。街中での製材には限界があった。その場所を生かす何か別のことは出来ないか……。当時アメリカでホームセンターが流行っていると知った。そして、昭和53年、福山市奈良津町の製材所跡に第1号店を開店した。この時、まだ福山に大型のホームセンターはなかった。連日長蛇の列が出来たという。「小売のことは何も分からないまま開店したがよく売れた。ホームセンターを時代が求めていた」と佐藤は当時を振り返る。
第1号店の開店から32年。ユーホーは県東部を中心に出店を続けた。店舗数はいま21を数える。だが業界の競争は激しさを増している。大手と地方の中小との戦いだ。「資金力の違い。大手に地方の中小がどう対抗するか」が最大の課題だ。
対抗策の一つとして、ユーホー神辺店を平成2年にオープンした。そこに競合店が進出してきた。そのため平成11年に別の場所に移転した。店舗は大型化した。そして更なる競争の激化。
平成17年に新神辺店をオープンさせた。広さはさらに広くなった。
「資金力では大手に負ける中小が出来ることは何か。新規出店ではなく、売り上げ好調な店を近くに移転して売り場面積を増やす。移転・増床で対抗した」と佐藤は言う。
多種多様な品揃え 専門のスタッフがアドバイス プライベートブランド商品の開発…… 大手に勝つために大切なことは何か……佐藤は「一層の地域密着。大手にできないもので地域一番店を目指す」と言う。
厳しい競争。時代の求めるもの。ホームセンターユーホーの試みと挑戦を追う。

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第96回 蘇った古代ロマン 蒲刈物産“海人の藻塩”誕生物語”

放送日:2010年3月6日(土)

穏やかな瀬戸内海。箱庭のような美しさだ。その海の恵みをいかした塩がある。その名も「海人の藻塩」。海人とは古代、海で魚や貝を採り、塩をつくることを生業としていた人の呼び名だ。歴史ロマンが漂う。
呉市蒲刈町の県民の浜。日本の渚百選にも選ばれた。マリンスポーツが楽しめるこの県民の浜に隣接する古代住居をイメージした建物が蒲刈物産の「海人の館」だ。「海人の藻塩」はここで作られる。
県民の浜の沖からくみ上げた海水を煮詰め、水分を飛ばしてサラサラになるまで焼き上げる。全て手作業。10トンの海水からとれる塩は、やっと200キロ。大量生産はとても出来ないと言う。
もう20年以上前に、蒲刈町の古代遺跡から製塩につながる土器が見つかったのが、藻塩作りの発端だった。「瀬戸内は古代から塩作りが盛んな地であったことが裏づけられ、古代にどのようにして塩を作っていたのか研究を始めた」・・・藻塩づくりを現代に蘇らせた研究家、松浦宣秀さんは当時を振り返る。
古代の製塩について古い文献を漁った。研究は難航した。万葉集にあった藻塩焼くの言葉がヒントになった。藻とは海藻のこと。この地域に多く生えるホンダワラに辿り着いた。
ホンダワラを海水に浸しては天日で干し、それを繰り返して塩分濃度を高め、土器に入れて煮詰める。藻塩作りには10年余りがかかった。
藻塩が出来上がったとき、松浦さんは、これを町おこしに活用しようと考えた。そして、平成10年やっと商品化が実現した。天然塩。静かにブームの輪が広がった。
いま、海人の藻塩のファンは広がっている。「素材の旨みを引きだす。塩自体にも旨みがある」と言う。
「瀬戸内海の歴史ロマンをよみがえらせた古代の藻塩焼き製法。それは健康にいい天然の自然塩。故郷の活性化に貢献したい。」と蒲刈物産支配人の高橋さんは言う。古代遺跡から見つかった土器。それをつかって塩を作っていた古代人に思いを馳せて再現した蒲刈の藻塩作り。そのロマンを現代の島の活性化に生かしたい。そんな願いに挑戦し、「海人の藻塩」を有名ブランドに育て上げた人々の思いに迫る。

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第95回 もみじ饅頭のやまだ屋 愛される味の進化を!

放送日:2010年2月27日(土)

1月23日、宮島の「やまだ屋」で「赤もみじ」の発売記念イベントが行われた。
広島を代表するお土産「もみじ饅頭」の大手メーカーやまだ屋が新発売した「赤もみじ」には、初めて赤唐辛子を使った。その発売記念イベントだ。広島のクリエータSO@Rサービスが企画提案し、やまだ屋が製品化した。
やまだ屋のもみじ饅頭は大野工場でつくられる。衛生管理は徹底している。自動化された製造工程。生産量は年々増加、今では年間2500万個を作る。「飽きのこない味。同時に時代の嗜好に応えるために重ねてきた業界・企業の努力の結果今がある。」中村社長はそう言う。
宮島でもみじ饅頭が作られ始めたのは明治40年。やまだ屋の創業は昭和7年。社長の祖母、山田ラクが職人を雇い小さな店を開いた。漉し餡を作るのは大変な肉体労働だったという。その大変さをどうにかしたいと機械化を進めたのが現会長で二代目社長だった山田勲だ。昭和30年代のことだ。「当時は漉し餡一斗を作るには汗を一斗流さなければならないといわれたほど餡つくりは大変だった。機械化出来ないか、試行錯誤した。」と山田会長は当時を振り返る。
昭和36年に会長の山田が考案した回転式の焼き機が保存されている。当時、手焼きで1時間に200個、この機械を使うと500個できた。生産量が飛躍的に伸びたという。
安佐南区西原のやまだ屋の工場では洋菓子が作られている。パティシエによる洋菓子つくりだ。
創業者の名前から「RAKU山田屋」というブランド名にした。中村社長は「新しい挑戦だ。お土産としてのもみじ饅頭。地域の人たちに味わってほしい」と話す。
宮島を訪れる修学旅行生や観光客が、もみじ饅頭の手焼き体験が出来る場がある。やまだ屋が体験実習をと場所を提供し始めたものだ。「宮島のよさを知ってほしい。宮島でしか出来ない体験をしてほしい。」との願いだ。
誕生から100年を超えたもみじ饅頭は、歳月をかけて全国にその名を知られる名品になった。伝統を守りながら新しいもう一歩を踏み出したい。老舗の三代目として挑戦を続けるリーダーの姿を追う。

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第94回 創業123年のフレスタ 原点はいつも正直な商売!

放送日:2010年2月20日(土)

6年前に生まれ変わったJR横川駅前広場。JRと路面電車のターミナル駅。大勢の通勤通学客で賑わう。その広場に接するのが地場スーパー大手のフレスタ横川店には、他の店とは違う特徴がある。店の入り口から惣菜が並ぶ。その種類と量の多さ。何でもある。店内キッチンでは惣菜作りが進む。仕入れるのではなく従業員が惣菜を作る。出来るとすぐに店頭に並べる。担当者は「新鮮、安心、安全を何より大切だ。だから自分の目で確認し、自分たちで責任をもってつくる」と言う。
品質管理と品質保証の国際規格ISO9001を去年取得した。製造業やサービス業での取得は多いが、食品小売業界では全国でも珍しい。取得には1年半がかかった。宗兼邦生社長は「仕入れや加工、販売などに関わる膨大な業務内容をマニュアル化した。それによって食の安全・安心の徹底。よりよい商品やサービスの提供に役立てるためだ」とその目的を話す。そのこだわりを形にしたのが「FRESTA Bimi Smile」と表示した商品だ。原材料や産地にこだわる。商品の充実で「質」での勝負を展開する。約600品目にものぼる。
フレスタの創業は123年前の明治20年までさかのぼる。宗兼清兵衛・ヤス夫妻が横川で菓子とタバコの小売を始めた。昭和2年には広島でいち早くロールケーキを販売し大評判になった。横川にあった店は原爆で全焼。戦後は果物を扱った。そして昭和35年横川に広島で第1号のスーパーマーケット「主婦の店」を開いた。
その開店から今年で50年になる。広島市を中心に中国3県で店舗数は51を数える。年商は615億円に上る。地場最大手のスーパーマーケットだ。
宗兼社長は「目指してきたのは地域に密着した店舗展開。商圏人口は1万人前後。その消費者ニーズに応えることで生まれる信頼を一番大事にしてきた。急激な変化の時代だ。店舗数や売り上げ拡張だけを目指さず、123年受け継いできた精神『正直な商売』を続ける。それが明日につながるはずだ」と言う。
創業123年の歴史の重み。受け継ぐものと時代への対応。信頼をキーワードに新しい挑戦を続けるフレスタの企業マインドに迫る。

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第93回 ミサワ環境技術 地中熱で冷暖房や融雪

放送日:2010年2月13日(土)

今年は例年に増して厳しい寒さが続いた。降り続く雪。暮らしを守るために除雪は欠かせない。その作業の大変さ。スリップ事故の怖さ。どうにかならないか。みんなの思いだ。
鳥取県大山の県道。冬場の平均積雪量は広島県内より多い。しかし、この県道に積雪はない。除雪車で除雪したわけでもない。散水で雪を溶かしたわけでもない。だが道路に雪はない。
広島県立みよし公園にある温水プール。普通温水プールはボイラーなどで水温を上げる。だがこの温水プールにボイラーはない。水温はどのようにしてあげているのか?
これらの技術を開発した企業が三次市にある。ミサワ環境技術株式会社だ。測量や地質調査が主な業務だが、国内トップクラスを誇るのが地中熱利用技術だ。地中熱とは地球自体が持つ熱だ。
井戸水の温度は一年大きな変化が無いことでもわかるように地下の温度はほぼ一定している。この地中熱を有効に利用する技術開発に取り組んできたのがミサワ環境技術だ。
ミサワ環境技術の創業者は社長の父、洲澤昭巳。昭和50年、三次で土質や地質の調査を請け負う会社を起こした。井戸掘りなどボーリング調査で会社の基盤を作った。そんな時ある出会いがあった。平成2年ドイツ製の掘削機を購入しようとした洲澤が偶然に視たのがこのビデオ。ヨーロッパにおける掘削の実例として地中熱のことが紹介されていた。洲澤社長は「地中熱の利用が欧米では広く普及している。日本でも広がる可能性は大きい。父はそう直感した」という。そして、日本の風土にあったシステムに改良するため、技術者を総動員して開発に取り組んだ。試行錯誤を重ねた。
地中熱を利用して冷暖房や給湯をまかなう地中熱システムは三次保育所や、個人の住宅でも工事が進められている。
快適な暮らしを実現するための地中熱。地中熱は天然の熱源。これを生かせば原油の使用量が減る。地球温暖化につながるCO2を削減できる。環境に優しいシステムの開発に挑み、自然エネルギーである地中熱で新しい環境時代を切り開くその取り組みに迫る。

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第92回 こんにゃくの寿マナック 空気に爪を立てる

放送日:2010年2月6日(土)

寒くなると恋しくなる”おでん”。そのねたとして欠かせないのがこんにゃくだ。どう味を染みこませるか。味は店のこだわりと時間、そして手間で決まるという。
広島市郊外、湯来町。かつてこんにゃくの産地として知られた町だ。ここに中四国で最大手のこんにゃくメーカー"寿マナック"がある。製造しているのは、伝統的な板こんにゃくや糸こんにゃく、そしてそれ以外にもめずらしい商品もあり、その数は100種類に上る。機械化された工場で製造される。原田雅司社長は「江戸時代に始まる伝統的な食品を、どう進化させて食べてもらうか。その開発がこんにゃくメーカーの生命線だ」と言う。
去年夏、寿マナックが広島市西区中広に開いた直営店「まんなまんま」には、独創的なメニューが並び女性客で賑わう。様々な創作料理を提供して食べ方を提案、こんにゃくの消費増に結び付けたい…そのアンテナショップとしての役割を果たすのがこの店だ。
生地にこんにゃくを練りこんだベーグル。こんにゃくの串カツ。こんにゃく入りのバターケーキもある。こんにゃくの食材としての多様さを提案する。
寿マナックの創業者は社長の義理の父で会長の山本克二。勤めていたこんにゃくメーカーから独立して昭和58年、こんにゃく作りを始めた。新商品開発と機械化推進の二つの目標を定めた。
そして、ヒット商品が生まれた。「つなこん」だ。綱のようなこんにゃくから命名した。糸こんにゃくを棒状に束ねてねじった、ねじりこんにゃくだ。味が染込みやすく、手軽に調理できる食材として全国の飲食店などで広く使われる代表商品になった。冷たく重いこんにゃく作りをどう機械化するか、新商品を開発してこんにゃくの用途をどう広げるのか…その開発が社風になった。
寿マナックが開発した新商品には、珍しいもの、楽しくなるものがいくつもある。「廣島こんにゃくつけ麺」、「7つの恵み爽やかサラダ」などだ。こんにゃくのもつ用途の広さを実感する。
原田社長が好きな言葉「空気に爪をたてる」…誰もが当たり前として見逃していること、無駄だとあきらめていること、あまり問題とされていないことを意識的に問題とし、現状を打開していきたい…そういう意味がこめられている。
日本の伝統的な食品。その機能性。時代のニーズにどう応え、需要拡大を図るか。機械化と商品開発に取り組む寿マナックの挑戦を追う。

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第91回 作業用手袋のトップメーカー・アトム 時代のニーズに応える

放送日:2010年1月30日(土)

製造工場で働く人たちの安全を陰で守るものの一つが作業用手袋だ。作業に応じた作業用手袋が使われる。滑り止め、フィット感やグリップ力があるなどが作業用手袋の特徴だ。
作業用手袋の種類は多い。アトムは特殊な手袋や長靴などのアイテムを企業の求めに応じて提供してきたトップメーカーだ。広島県竹原市にある。
社長は平雄一郎、49歳。6代目の社長だ。去年1月に就任した。世界同時不況の時。厳しい時代の就任だった。製造業の不況と作業用手袋の需要、そして中国からの低価格商品……厳しい状況は今も続いているという。
アトムの創業者は社長の祖父、平友四郎。昭和17年、軍港の町、呉で海軍工廠に作業服を納品する縫製業を興した。業績は順調だった。戦後は竹原市忠海に移転した。縫製から紡績に転じ、ナイロン糸で軍足や軍手を作った。そして、昭和30年代の後半、田植えの時には白足袋をはいて田んぼにはいっていた。滑りやすいという欠点があった。どうにかならないかという話が持ち込まれた。滑り止めとして布地にゴム加工を施すことを思いついた。ゴム会社の協力を得て、足袋の甲の部分にはゴム糊を塗り、底にはゴムシートを貼った製品を作った。大ヒットした。現在も田植えには欠かせないと根強い需要がある。リングセラー商品になった。
「タビにゴムが貼れたのだから手袋にもゴムを貼って、滑りにくくて丈夫な手袋が出来るはずだ」……商談の時に言われた何気ない一言でゴム張り手袋の開発が始まった。
そして昭和44年から製造を始めたのが、手のひらと指の横にゴムを薄く張ったゴム張り手袋。作業の際の滑り止めと手の保護に優れている。現在もアトムの主力製品だ。これがアトムの基盤を確かなものにした。
アトムは時代の要請に応え、アイディアを形にしてきた。そして国内トップメーカーに躍り出た。創業から68年。6代目若き社長の経営戦略を追う。

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第90回 パリコレで注目!オリジナル刺繍の美希刺繍工芸

放送日:2010年1月23日(土)

福山市駅家町万能倉。繊維産業の盛んなこの街に美希刺繍工芸はある。従業員15人の小さな町工場に今、世界が注目する。
世界の著名な服飾デザイナーが新作を発表するパリコレクション。通称パリコレ。年2回開かれる。その年のファッションはここから生まれるといわれる。もう10年以上前からこのパリコレで次々に新しい生地を提供しているのが福山の小さな町工場、美希刺繍工芸だ。
美希刺繍をパリコレに連れて行ってくれた生地はデニム生地にドリルで穴を開けたものだ。刺繍の概念を超えた新しい生地にデザイナーの鳥居ユキさんが注目した。
鳥居さんが11年前パリコレで発表したデニムのジャケットの生地を提供したのが美希刺繍。生地、そして鏡を縫いこんだ独特の刺繍。美希刺繍が世界の注目を集めるきっかけだった。
新たな刺繍を製作するために社長の苗代はミシンのメカニズムを徹底的に研究した。そして、ひらめいたアイディアをすぐやってみた。「メカを知っていればそれが開発の原点になる」と苗代は言う。
苗代の出身地は現在の福山市新市町。備後絣の伝統を受け継ぎ戦後は作業服の縫製などが盛んだった。苗代も商業高校を卒業した昭和34年、地元の縫製会社に就職した。そして2年目にはミシンの修理を担当した。ミシンを分解して徹底して勉強した。ミシンのことなら何でも分かるようになった。
そんな苗代が出会ったのが作業着に企業の名前を入れるネーム刺繍。これなら出来ると思った。独立して会社を興した。苗代は”人が出来ないことをやろう、誰にも負けない感性と誰にも負けない技術力を持とう”と決意した。……刺繍の概念を破れ。それは縫うのではなく切ること。着古したデニムジーンズの綿の糸のほつれがジーンズを引き立てている。あれをミシンでつくろう!……ジーンズの縦糸を柄になるように切った。洗って晒す加工を重ねて出来たジーンズ。切った縦糸のほつれが、見事に柄になり、浮き上がっていた。値段は10万円。飛ぶように売れたという。
ミシンのことなら何でも分かる苗代が生み出した新しい技術。それは誰も真似の出来ない技術だ。その技術が切り開く新しい刺繍の世界。パリコレで注目を集めた新商品開発への挑戦を追った。

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第89回 ふるさとの味を進化させる!老舗・新庄みその挑戦

放送日:2010年1月16日(土)

冷え込みが厳しくなると温かい鍋料理が恋しくなる。スーパーの食品売り場には鍋料理用に便利なスープがずらりと並ぶ。キャッチフレーズは”家庭でも簡単に楽しめる本格的な味”だ。
味噌製造の地場大手、新庄みその主力工場は安芸高田市吉田町にある。この時期、鍋専用のスープつくりは最盛期を迎える。新庄みそが製造する鍋料理用味噌は多くの種類がある。それぞれに味の工夫があるという。例えばカキの土手鍋の場合、生カキの臭みをどう吸収するかを研究、吸収効果がある”豆みそ”を”白みそ”とブレンドした。また、石狩鍋には具材に塩サケを使うので、塩分は控えめにした味噌を使う。
このところ、みその消費量は年々減少を続けていると言う。当然生産量も落ちる。商品開発でどう需要拡大を図るか、それが最大の課題だ。
新商品開発の手がかりを探そうと、広島のベンチャー企業が開発した超高圧装置「まるごとエキス」を使って熟成実験を繰り返す。去年からの取り組みだ。「超高圧装置にかけると熟成が早まる。そうすれば塩分は少なくてすむ。この装置で減塩の健康みそを作りたい」……山本社長の思いだ。
新庄みその創業は大正12年までさかのぼる。社長の祖父、山本万吉が当時は自家用だった味噌を商品として売った。屋号を地名から「新庄みそ」にした。原爆で工場は全焼し昭和22年に再建の一歩を踏み出した。そして、広島に愛される味噌を目指し続けた。いち早く、コンピュータ制御の自動発酵システムを導入した。経験と勘から合理的で安全と安心を確保する生産管理へ。生産設備を進化させる。
新庄みそが目指す進路はどこなのか。 消費量減少の中でどう伝統の食文化を守り、健康食品としての味噌の機能性を生かすのか。時代の中で格闘する老舗味噌メーカー、新庄みその挑戦を追う。

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第88回 美術表装の東洋額装 業界の常識へ挑戦

放送日:2010年1月9日(土)

新しい年を迎えた喜びと清新さ。日本人の季節や行事を大切にする思い。その象徴が床の間の掛け軸。その伝統の美を伝える掛け軸や屏風。清清しさが伝わる。
6年前に開館した財団法人が運営するふくやま書道美術館は全国でも珍しい書の美術館だ。福山市は書道が活発な地域でもある。
東洋額装はその福山市の加茂町にある。書や日本画などを掛け軸や屏風に仕立てる「美術表装」を手がける。その売り上げは国内でトップクラスだ。東洋額装の三代目社長が小林英樹、39歳。2年前に社長に就任した。80人の社員を牽引する。「子どもの頃、作業場で父や母が夜遅くまで表装をやっているのを見て育った。いずれは自分がと思っていた」と言う。
創業者は社長の父、小林正明。昭和48年勤めていた製鉄会社を脱サラして個人経営の東洋額装を興した。表具材料店で2年間修行しての起業だった。「無名の会社。営業しかないと思って一軒一軒を回った。50軒回れば1ついい話がある。そう信じて営業活動を続けた。」と振り返る。
創業3年目に関西書芸院山陽文化会館の開館記念展覧会を受注。作業台の上で仮眠するほどの忙しさの中から必然的に生まれたのが分業制だった。短納期、大量処理のシステムを確立した。当時、時間やお金のことをいうお客さんはお断りという表具屋があった。丁寧な仕事のためには時間がかかって当たり前とみんなが思っていた時代、分業システムは業界の常識への挑戦だった。
こだわりの職人仕事の代表ともいえた表具。そこに持ち込んだ分業システム。工程を20に分けた。それぞれの専門家を作った。大量の表具製作が可能になった。業界の信頼を得た。表具に求められる美しさ。そのための技術の向上。従業員の内20人が厚生労働大臣認定の1級表具師の資格を持つ。
今は床の間や和室のない家が増え、書道人口も減少の一途だ。書画の表具はこれからどうあるべきか……。小林社長は「再度業界の常識への挑戦が必要だ」と考え挑戦を続けている。業界の常識に挑戦する東洋額装の企業マインドに迫る。

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