
放送日:2010年2月27日(土)
1月23日、宮島の「やまだ屋」で「赤もみじ」の発売記念イベントが行われた。
広島を代表するお土産「もみじ饅頭」の大手メーカーやまだ屋が新発売した「赤もみじ」には、初めて赤唐辛子を使った。その発売記念イベントだ。広島のクリエータSO@Rサービスが企画提案し、やまだ屋が製品化した。
やまだ屋のもみじ饅頭は大野工場でつくられる。衛生管理は徹底している。自動化された製造工程。生産量は年々増加、今では年間2500万個を作る。「飽きのこない味。同時に時代の嗜好に応えるために重ねてきた業界・企業の努力の結果今がある。」中村社長はそう言う。
宮島でもみじ饅頭が作られ始めたのは明治40年。やまだ屋の創業は昭和7年。社長の祖母、山田ラクが職人を雇い小さな店を開いた。漉し餡を作るのは大変な肉体労働だったという。その大変さをどうにかしたいと機械化を進めたのが現会長で二代目社長だった山田勲だ。昭和30年代のことだ。「当時は漉し餡一斗を作るには汗を一斗流さなければならないといわれたほど餡つくりは大変だった。機械化出来ないか、試行錯誤した。」と山田会長は当時を振り返る。
昭和36年に会長の山田が考案した回転式の焼き機が保存されている。当時、手焼きで1時間に200個、この機械を使うと500個できた。生産量が飛躍的に伸びたという。
安佐南区西原のやまだ屋の工場では洋菓子が作られている。パティシエによる洋菓子つくりだ。
創業者の名前から「RAKU山田屋」というブランド名にした。中村社長は「新しい挑戦だ。お土産としてのもみじ饅頭。地域の人たちに味わってほしい」と話す。
宮島を訪れる修学旅行生や観光客が、もみじ饅頭の手焼き体験が出来る場がある。やまだ屋が体験実習をと場所を提供し始めたものだ。「宮島のよさを知ってほしい。宮島でしか出来ない体験をしてほしい。」との願いだ。
誕生から100年を超えたもみじ饅頭は、歳月をかけて全国にその名を知られる名品になった。伝統を守りながら新しいもう一歩を踏み出したい。老舗の三代目として挑戦を続けるリーダーの姿を追う。



放送日:2010年2月20日(土)
6年前に生まれ変わったJR横川駅前広場。JRと路面電車のターミナル駅。大勢の通勤通学客で賑わう。その広場に接するのが地場スーパー大手のフレスタ横川店には、他の店とは違う特徴がある。店の入り口から惣菜が並ぶ。その種類と量の多さ。何でもある。店内キッチンでは惣菜作りが進む。仕入れるのではなく従業員が惣菜を作る。出来るとすぐに店頭に並べる。担当者は「新鮮、安心、安全を何より大切だ。だから自分の目で確認し、自分たちで責任をもってつくる」と言う。
品質管理と品質保証の国際規格ISO9001を去年取得した。製造業やサービス業での取得は多いが、食品小売業界では全国でも珍しい。取得には1年半がかかった。宗兼邦生社長は「仕入れや加工、販売などに関わる膨大な業務内容をマニュアル化した。それによって食の安全・安心の徹底。よりよい商品やサービスの提供に役立てるためだ」とその目的を話す。そのこだわりを形にしたのが「FRESTA Bimi Smile」と表示した商品だ。原材料や産地にこだわる。商品の充実で「質」での勝負を展開する。約600品目にものぼる。
フレスタの創業は123年前の明治20年までさかのぼる。宗兼清兵衛・ヤス夫妻が横川で菓子とタバコの小売を始めた。昭和2年には広島でいち早くロールケーキを販売し大評判になった。横川にあった店は原爆で全焼。戦後は果物を扱った。そして昭和35年横川に広島で第1号のスーパーマーケット「主婦の店」を開いた。
その開店から今年で50年になる。広島市を中心に中国3県で店舗数は51を数える。年商は615億円に上る。地場最大手のスーパーマーケットだ。
宗兼社長は「目指してきたのは地域に密着した店舗展開。商圏人口は1万人前後。その消費者ニーズに応えることで生まれる信頼を一番大事にしてきた。急激な変化の時代だ。店舗数や売り上げ拡張だけを目指さず、123年受け継いできた精神『正直な商売』を続ける。それが明日につながるはずだ」と言う。
創業123年の歴史の重み。受け継ぐものと時代への対応。信頼をキーワードに新しい挑戦を続けるフレスタの企業マインドに迫る。



放送日:2010年2月13日(土)
今年は例年に増して厳しい寒さが続いた。降り続く雪。暮らしを守るために除雪は欠かせない。その作業の大変さ。スリップ事故の怖さ。どうにかならないか。みんなの思いだ。
鳥取県大山の県道。冬場の平均積雪量は広島県内より多い。しかし、この県道に積雪はない。除雪車で除雪したわけでもない。散水で雪を溶かしたわけでもない。だが道路に雪はない。
広島県立みよし公園にある温水プール。普通温水プールはボイラーなどで水温を上げる。だがこの温水プールにボイラーはない。水温はどのようにしてあげているのか?
これらの技術を開発した企業が三次市にある。ミサワ環境技術株式会社だ。測量や地質調査が主な業務だが、国内トップクラスを誇るのが地中熱利用技術だ。地中熱とは地球自体が持つ熱だ。
井戸水の温度は一年大きな変化が無いことでもわかるように地下の温度はほぼ一定している。この地中熱を有効に利用する技術開発に取り組んできたのがミサワ環境技術だ。
ミサワ環境技術の創業者は社長の父、洲澤昭巳。昭和50年、三次で土質や地質の調査を請け負う会社を起こした。井戸掘りなどボーリング調査で会社の基盤を作った。そんな時ある出会いがあった。平成2年ドイツ製の掘削機を購入しようとした洲澤が偶然に視たのがこのビデオ。ヨーロッパにおける掘削の実例として地中熱のことが紹介されていた。洲澤社長は「地中熱の利用が欧米では広く普及している。日本でも広がる可能性は大きい。父はそう直感した」という。そして、日本の風土にあったシステムに改良するため、技術者を総動員して開発に取り組んだ。試行錯誤を重ねた。
地中熱を利用して冷暖房や給湯をまかなう地中熱システムは三次保育所や、個人の住宅でも工事が進められている。
快適な暮らしを実現するための地中熱。地中熱は天然の熱源。これを生かせば原油の使用量が減る。地球温暖化につながるCO2を削減できる。環境に優しいシステムの開発に挑み、自然エネルギーである地中熱で新しい環境時代を切り開くその取り組みに迫る。



放送日:2010年2月6日(土)
寒くなると恋しくなる”おでん”。そのねたとして欠かせないのがこんにゃくだ。どう味を染みこませるか。味は店のこだわりと時間、そして手間で決まるという。
広島市郊外、湯来町。かつてこんにゃくの産地として知られた町だ。ここに中四国で最大手のこんにゃくメーカー"寿マナック"がある。製造しているのは、伝統的な板こんにゃくや糸こんにゃく、そしてそれ以外にもめずらしい商品もあり、その数は100種類に上る。機械化された工場で製造される。原田雅司社長は「江戸時代に始まる伝統的な食品を、どう進化させて食べてもらうか。その開発がこんにゃくメーカーの生命線だ」と言う。
去年夏、寿マナックが広島市西区中広に開いた直営店「まんなまんま」には、独創的なメニューが並び女性客で賑わう。様々な創作料理を提供して食べ方を提案、こんにゃくの消費増に結び付けたい…そのアンテナショップとしての役割を果たすのがこの店だ。
生地にこんにゃくを練りこんだベーグル。こんにゃくの串カツ。こんにゃく入りのバターケーキもある。こんにゃくの食材としての多様さを提案する。
寿マナックの創業者は社長の義理の父で会長の山本克二。勤めていたこんにゃくメーカーから独立して昭和58年、こんにゃく作りを始めた。新商品開発と機械化推進の二つの目標を定めた。
そして、ヒット商品が生まれた。「つなこん」だ。綱のようなこんにゃくから命名した。糸こんにゃくを棒状に束ねてねじった、ねじりこんにゃくだ。味が染込みやすく、手軽に調理できる食材として全国の飲食店などで広く使われる代表商品になった。冷たく重いこんにゃく作りをどう機械化するか、新商品を開発してこんにゃくの用途をどう広げるのか…その開発が社風になった。
寿マナックが開発した新商品には、珍しいもの、楽しくなるものがいくつもある。「廣島こんにゃくつけ麺」、「7つの恵み爽やかサラダ」などだ。こんにゃくのもつ用途の広さを実感する。
原田社長が好きな言葉「空気に爪をたてる」…誰もが当たり前として見逃していること、無駄だとあきらめていること、あまり問題とされていないことを意識的に問題とし、現状を打開していきたい…そういう意味がこめられている。
日本の伝統的な食品。その機能性。時代のニーズにどう応え、需要拡大を図るか。機械化と商品開発に取り組む寿マナックの挑戦を追う。



放送日:2010年1月30日(土)
製造工場で働く人たちの安全を陰で守るものの一つが作業用手袋だ。作業に応じた作業用手袋が使われる。滑り止め、フィット感やグリップ力があるなどが作業用手袋の特徴だ。
作業用手袋の種類は多い。アトムは特殊な手袋や長靴などのアイテムを企業の求めに応じて提供してきたトップメーカーだ。広島県竹原市にある。
社長は平雄一郎、49歳。6代目の社長だ。去年1月に就任した。世界同時不況の時。厳しい時代の就任だった。製造業の不況と作業用手袋の需要、そして中国からの低価格商品……厳しい状況は今も続いているという。
アトムの創業者は社長の祖父、平友四郎。昭和17年、軍港の町、呉で海軍工廠に作業服を納品する縫製業を興した。業績は順調だった。戦後は竹原市忠海に移転した。縫製から紡績に転じ、ナイロン糸で軍足や軍手を作った。そして、昭和30年代の後半、田植えの時には白足袋をはいて田んぼにはいっていた。滑りやすいという欠点があった。どうにかならないかという話が持ち込まれた。滑り止めとして布地にゴム加工を施すことを思いついた。ゴム会社の協力を得て、足袋の甲の部分にはゴム糊を塗り、底にはゴムシートを貼った製品を作った。大ヒットした。現在も田植えには欠かせないと根強い需要がある。リングセラー商品になった。
「タビにゴムが貼れたのだから手袋にもゴムを貼って、滑りにくくて丈夫な手袋が出来るはずだ」……商談の時に言われた何気ない一言でゴム張り手袋の開発が始まった。
そして昭和44年から製造を始めたのが、手のひらと指の横にゴムを薄く張ったゴム張り手袋。作業の際の滑り止めと手の保護に優れている。現在もアトムの主力製品だ。これがアトムの基盤を確かなものにした。
アトムは時代の要請に応え、アイディアを形にしてきた。そして国内トップメーカーに躍り出た。創業から68年。6代目若き社長の経営戦略を追う。



放送日:2010年1月23日(土)
福山市駅家町万能倉。繊維産業の盛んなこの街に美希刺繍工芸はある。従業員15人の小さな町工場に今、世界が注目する。
世界の著名な服飾デザイナーが新作を発表するパリコレクション。通称パリコレ。年2回開かれる。その年のファッションはここから生まれるといわれる。もう10年以上前からこのパリコレで次々に新しい生地を提供しているのが福山の小さな町工場、美希刺繍工芸だ。
美希刺繍をパリコレに連れて行ってくれた生地はデニム生地にドリルで穴を開けたものだ。刺繍の概念を超えた新しい生地にデザイナーの鳥居ユキさんが注目した。
鳥居さんが11年前パリコレで発表したデニムのジャケットの生地を提供したのが美希刺繍。生地、そして鏡を縫いこんだ独特の刺繍。美希刺繍が世界の注目を集めるきっかけだった。
新たな刺繍を製作するために社長の苗代はミシンのメカニズムを徹底的に研究した。そして、ひらめいたアイディアをすぐやってみた。「メカを知っていればそれが開発の原点になる」と苗代は言う。
苗代の出身地は現在の福山市新市町。備後絣の伝統を受け継ぎ戦後は作業服の縫製などが盛んだった。苗代も商業高校を卒業した昭和34年、地元の縫製会社に就職した。そして2年目にはミシンの修理を担当した。ミシンを分解して徹底して勉強した。ミシンのことなら何でも分かるようになった。
そんな苗代が出会ったのが作業着に企業の名前を入れるネーム刺繍。これなら出来ると思った。独立して会社を興した。苗代は”人が出来ないことをやろう、誰にも負けない感性と誰にも負けない技術力を持とう”と決意した。……刺繍の概念を破れ。それは縫うのではなく切ること。着古したデニムジーンズの綿の糸のほつれがジーンズを引き立てている。あれをミシンでつくろう!……ジーンズの縦糸を柄になるように切った。洗って晒す加工を重ねて出来たジーンズ。切った縦糸のほつれが、見事に柄になり、浮き上がっていた。値段は10万円。飛ぶように売れたという。
ミシンのことなら何でも分かる苗代が生み出した新しい技術。それは誰も真似の出来ない技術だ。その技術が切り開く新しい刺繍の世界。パリコレで注目を集めた新商品開発への挑戦を追った。



放送日:2010年1月16日(土)
冷え込みが厳しくなると温かい鍋料理が恋しくなる。スーパーの食品売り場には鍋料理用に便利なスープがずらりと並ぶ。キャッチフレーズは”家庭でも簡単に楽しめる本格的な味”だ。
味噌製造の地場大手、新庄みその主力工場は安芸高田市吉田町にある。この時期、鍋専用のスープつくりは最盛期を迎える。新庄みそが製造する鍋料理用味噌は多くの種類がある。それぞれに味の工夫があるという。例えばカキの土手鍋の場合、生カキの臭みをどう吸収するかを研究、吸収効果がある”豆みそ”を”白みそ”とブレンドした。また、石狩鍋には具材に塩サケを使うので、塩分は控えめにした味噌を使う。
このところ、みその消費量は年々減少を続けていると言う。当然生産量も落ちる。商品開発でどう需要拡大を図るか、それが最大の課題だ。
新商品開発の手がかりを探そうと、広島のベンチャー企業が開発した超高圧装置「まるごとエキス」を使って熟成実験を繰り返す。去年からの取り組みだ。「超高圧装置にかけると熟成が早まる。そうすれば塩分は少なくてすむ。この装置で減塩の健康みそを作りたい」……山本社長の思いだ。
新庄みその創業は大正12年までさかのぼる。社長の祖父、山本万吉が当時は自家用だった味噌を商品として売った。屋号を地名から「新庄みそ」にした。原爆で工場は全焼し昭和22年に再建の一歩を踏み出した。そして、広島に愛される味噌を目指し続けた。いち早く、コンピュータ制御の自動発酵システムを導入した。経験と勘から合理的で安全と安心を確保する生産管理へ。生産設備を進化させる。
新庄みそが目指す進路はどこなのか。 消費量減少の中でどう伝統の食文化を守り、健康食品としての味噌の機能性を生かすのか。時代の中で格闘する老舗味噌メーカー、新庄みその挑戦を追う。



放送日:2010年1月9日(土)
新しい年を迎えた喜びと清新さ。日本人の季節や行事を大切にする思い。その象徴が床の間の掛け軸。その伝統の美を伝える掛け軸や屏風。清清しさが伝わる。
6年前に開館した財団法人が運営するふくやま書道美術館は全国でも珍しい書の美術館だ。福山市は書道が活発な地域でもある。
東洋額装はその福山市の加茂町にある。書や日本画などを掛け軸や屏風に仕立てる「美術表装」を手がける。その売り上げは国内でトップクラスだ。東洋額装の三代目社長が小林英樹、39歳。2年前に社長に就任した。80人の社員を牽引する。「子どもの頃、作業場で父や母が夜遅くまで表装をやっているのを見て育った。いずれは自分がと思っていた」と言う。
創業者は社長の父、小林正明。昭和48年勤めていた製鉄会社を脱サラして個人経営の東洋額装を興した。表具材料店で2年間修行しての起業だった。「無名の会社。営業しかないと思って一軒一軒を回った。50軒回れば1ついい話がある。そう信じて営業活動を続けた。」と振り返る。
創業3年目に関西書芸院山陽文化会館の開館記念展覧会を受注。作業台の上で仮眠するほどの忙しさの中から必然的に生まれたのが分業制だった。短納期、大量処理のシステムを確立した。当時、時間やお金のことをいうお客さんはお断りという表具屋があった。丁寧な仕事のためには時間がかかって当たり前とみんなが思っていた時代、分業システムは業界の常識への挑戦だった。
こだわりの職人仕事の代表ともいえた表具。そこに持ち込んだ分業システム。工程を20に分けた。それぞれの専門家を作った。大量の表具製作が可能になった。業界の信頼を得た。表具に求められる美しさ。そのための技術の向上。従業員の内20人が厚生労働大臣認定の1級表具師の資格を持つ。
今は床の間や和室のない家が増え、書道人口も減少の一途だ。書画の表具はこれからどうあるべきか……。小林社長は「再度業界の常識への挑戦が必要だ」と考え挑戦を続けている。業界の常識に挑戦する東洋額装の企業マインドに迫る。


