
放送日:2009年12月26日(土)
2008年11月福山市神辺町にオープンした「フレスポ神辺モール」。広島県東部では最大のオープンモールだ。800台の駐車場をテナントの建物が取り囲む。その一角にある啓文社の「コア神辺店」。2階建てで広さは1000坪ある。書籍からCDやDVDのレンタル、ネットカフェも併設している。最先端をいく店舗だ。4代目社長手塚淳三は「本を基本にそこから派生するあらゆる文化を網羅したカルチャーテーマパークだ。消費者の期待に答えるための施設」だと胸を張る。
啓文社の創業の地は尾道市の本通り商店街。尾道一の賑わいを見せたこの通りも、人通りは少ない。シャッターを降ろした店が目立つ。その一つが啓文社の久保店。3年前に閉店した。
社長の父、手塚弘三会長は「子どもの頃この店で手当たり次第に少年雑誌を読んだ記憶のある思い出の店。最盛期の10分の1の来客数では閉店せざるを得なかった。時代の変化だ」と、時代の今を見つめる。
啓文社は昭和6年に創業した。会長の祖父、手塚乕蔵(とらぞう)が始め、当時尾道商業学校の学生だった父、景三が店の経営を任された。広さは10坪。町の小さな本屋だった。啓文社とは文化を啓くとの意味。書店名を描き込んだブックカバーをもう40年も使っている。描いたのは尾道の名誉市民にも選ばれた画家・小林和作。この包装紙には啓文社の住所も電話番号もない。わけがある。手塚弘三会長は「書かなくても分かる。そんな立派な店にしなさいとのことだった」と語る。
啓文社の新しい時代を切り開いた店、それが昭和58年福山市奈良津町に開いた「ブックシティー店」だった。35台分の駐車場を備えた初めての郊外型店舗だった。駐車場がない店は入りにくいとの声に応えた。冒険だと言われたが、開店初日から長い列ができた。これ以降、郊外型多店舗展開が一気に進んだ。
しかし今、郊外型の先駆けになった「ブックシティー」も時代の波にさらされる。6年前ビデオレンタル店に変わった。時代の変化の象徴だ。
こんな時代、啓文社の、ある店舗の書棚には短い感想文の書かれた本の帯が並ぶ。この店ではビデオにも感想文の帯がついている。面白いよと進める短い文章。出版社が作った帯とは違う。この店独自の取組みだ。担当者は「本を売るだけ、ビデオをレンタルするだけでなく、何か地域のお客さんと一緒に楽しむことは出来ないかと13年前に、30字以内で表現する日本一短い感想文コンクールを始めた。その優秀作品を本の帯などに使っている。なかなか面白いものがある」と話す。コンクールには2000を超える応募があるという。感想文を読む楽しさ、誘われて手にする本。読書の楽しみ、名画を見る楽しみがここから広がる。
活字離れで本が売れない。少子化で参考書も売り上げは伸び悩む。回転率の高い雑誌はコンビニに奪われる。インターネットで本を注文する人も増えた。書店を巡る数々の課題。地方の書店はどう時代に向き合うのか。本屋を見れば地域の文化度がわかるといわれる。地域文化の輪を未来につなごうとする啓文社のとりくみを追う。



放送日:2009年12月19日(土)
日本酒の消費量の減少が止まらない。平成15年には焼酎に抜かれた。日本酒のピークは昭和50年。3分の1まで落ち込んだ。若者の酒離れや酒類の多様化などが原因だと言われる。
中区白島九軒町にある10階建てのマンションの地下にある酒蔵。入り口に「ほうらいつる」の看板。そして酒屋のシンボルの杉玉。これがなければここに酒蔵があるとは誰も気づかない。
原社長は「地下に酒蔵があるのは日本でもここだけ。日本で一番小さい酒蔵だろう」と語る。しかし、歴史は古い。今から204年前、江戸末期の文化2年の創業だ。
原本店が最大の転換点を迎えたのは平成2年だった。先代で現社長の祖父、原幸夫がなくなり、相続税と固定資産税が重くのしかかったからだ。親族会議で「酒造りは廃業してマンション経営をする以外ないだろう」との結論となった。
当時、原は県内の醸造メーカーに勤めていた。妻の純子も酒に関する研究の経験を持っていた。マンションで酒は作れないか。200年近い歴史を受け継ぐことは出来ないか。原は懸命に考えたという。そして決断したのが「地下での醸造」だった。普通酒は冬場の3ヵ月で1年分を作るがそれだけ大きな設備が必要になる。だが地下室で作れば季節を通じて室温がほぼ一定しているため一年を通じて酒が作れる。そうすれば設備の規模は小さくていい。……それが結論だった。
作りたいのは味のある酒。日本一小さな酒蔵でも出来ること。純米吟醸の「奏ハーモニー」は連続受賞を続ける。原本店の200年の歳月と挑戦を追う。



放送日:2009年12月12日(土)
立冬を過ぎて寒さが増して来るこの季節、広島の冬の風物詩、広島菜の収穫が安佐南区川内で始まった。住宅の間に点在する畑。農家の人たちが朝早くから収穫に追われる。寒さが深まると歯ごたえと味の深みが増すといわれる。
広島菜漬けを主力商品にする漬物製造販売「猫島商店」の猫島栄秀社長は時間があれば契約農家のもとを訪れる。広島菜の出来が何より気になる。「広島菜漬けの美味しさの基本は素材が全て」だからだ。
広島菜の漬け込みが行われるのは島根県の瑞穂町にある工場だ。持ち込まれた大量の広島菜をきれいに洗浄し、調味液に浸し、漬け込み加工が行われる。
創業者は猫島茂。昭和3年、川内地区で栽培されていた広島菜に注目した。当時自家用として作られていた広島菜漬けを広島で売ろう。製造と販売を始めた。
戦後の高度経済成長時代、広島菜漬けは冬の贈答品として人気を呼ぶようになった。冬の代名詞になった。樽詰めの広島菜漬けが飛ぶように売れた。猫島の広島菜漬けが全国に広がった。
創業から80年。猫島栄秀は3代目の社長。食をめぐる大きな変化に直面している。最近漬物の消費量が減っている。伝統的な味も敬遠されがちだという。今、猫島社長は「食生活の変化。ご飯を食べなくなった。どのようにして漬物を食べてもらうか。それが漬物メーカーの最大の課題だ」と言う。その課題を解決するため猫島商店が注目したのが、ぬか漬けなど日本人が昔から親しんできた乳酸発酵漬物。広島大学と共同研究を続け開発に成功したのがアミノ酸の一種「ギャバ」を多く含んだ漬物だ。健康食品として大きな期待が持てる。猫島社長は「伝統を守る一方で時代を読みながら新しい味を開発することが大切。伝統にあぐらをかくのではなく新しい挑戦を続けたい。」と言う。
伝統の広島菜を原点に、素材を大切にしながら新たな美味しさと機能性に着目し挑戦を続ける猫島の取り組みを追う。



放送日:2009年12月5日(土)
牛来(ごらい)千鶴。36歳の時、自分の可能性を試したいと勤めていた企画会社を辞め、独立した。自宅や小さなオフィスで仕事をする人たちが情報交換し、安い経費で事務所を共有できたら…。その夢を実現した。小さなビルの1フロアに共同オフィスを開いた。わずか2ヶ月で10人の入居者が決まった。
自宅や小さな事務所で自由に仕事をする人や企業をSOHOという。そのSOHOをもっと知って欲しいと、多くの企業に呼びかける手作りのイベントを開いた。SOHOの可能性を広げたいと願った。そして、2004年3月、牛来は将来有望なベンチャー企業や個人を表彰するひろしまベンチャー大賞に選ばれた。社会の中でSOHOの認知がゆっくりと広がった。
今年6月には新たな共同オフィスの拠点として「ソアラビジネスポート」を開設。クリエーターやSOHO、起業家に最適なオフィスを提供する。牛来社長は「個人やSOHO、起業家たちの可能性を広げたい。その拠点を作りたかった。あったらいいなの思いを形にした」と言う。SOHOと地元企業が向き合って新しい商品や新しいサービスを生み出して行くための交流の拠点であり、創造の場だ。
さっそくその成果が現れた。牛来が提案した「黒もみじ」だ。もみじ饅頭に竹炭のパウダーを混ぜた黒い生地が特徴だ。宮島・やまだ屋が2007年1月から製造開始、月間3万個を販売する。人気は高い。更に、いま進行中のプロジェクトもある。
牛来社長は「企画の一部を請け負うだけでなく、商品の売れ行きに応じて成功報酬を受け取る、そんなビジネスの新しい展開を今後もさらに発展させたい」と夢を語る。その実現に向けて新風を起こそうとしているソアラサービス。最初はたった一人から始めた牛来社長の挑戦の歳月に迫る。



放送日:2009年11月28日(土)
広島文化学園は、戦後団塊の世代が高校を卒業する年齢を迎える直前の昭和39年、女子教育の充実を願って設立された広島文化女子短期大学を前身とする。
初代理事長は海見勝。学生人口増加時代の女子教育を支えるとともに、子どもの数が減少する時代を迎えても、学科増設や男女共学化、4年間学べる課程の設置などをすすめ、平成11年には「広島文化短期大学」に改称、平成21年4月には「広島文化学園短期大学」となった。
一方で昭和61年設立された呉女子短期大学も、平成7年に設立された4年制大学「呉大学」の短期大学部と改称した。平成15年に坂町の立志館大学を継承して坂キャンパスとした呉大学は平成21年4月「広島文化学園大学」と改称、広島文化学園の系列大学であることを校名でも明確にした。
現理事長は海見俊宏氏、初代勝氏の甥にあたる。3代目だ。
広島文化学園は現在、短期大学1校2キャンパス、4年制大学1校4キャンパスを擁する。建学の精神は,“THEORIA CUM PRAXI”(究理実践)。本来は矛盾しているかも知れない理論と実践を敢えて一つに結び合わせようとする懸命の努力の中にのみ人間の成長の可能性があり,またそこにこそ社会の発展の原動力が潜んでいるという考え方だという。 “THEORIA CUM PRAXI”という表現は, G.W.ライプニッツ(1646〜1716)の言葉として有名だが,教育的にも極めて高い内容をもつと同時に,研究をすすめる中で一人ひとりの科学者が常に念頭において欲しい言葉だと、学園長の坂田正二は言う。こうした理論と実践を結びつけ一体とする努力の中に真の人間形成があり,科学的進歩があるとしている。理論と実践の融合は言うべくして困難な道程だがM.ブーバー(1878〜1965)の「対話」の思想の援けをかりれば大きなエネルギーに転化することが可能であるとする。このように、理論と実践,それを結びつけやすくしてくれる「対話」の思想が,本学園の経営する一大学一短大を貫く一本の矢であり,守り続けていきたい建学の精神だと坂田は確信している。
人口減少時代に直面し、新たな教学の精神を柱に据えて、地域に密着した教育展開を確固としたものにしようとしている学園の未来展望を描く。



放送日:2009年11月21日(土)
平成21年11月6日、広島市南区宇品西にイズミの「ゆめタウンみゆき」がオープンした。地場最大手のスーパーチェーン「イズミ」が展開する「ゆめタウン」は直営店とテナントで構成する複合型大型ショッピングセンターだ。イズミの「ゆめタウン」は平成2年東広島市西条に1号店を出店。中四国、九州を中心に店舗展開を続けてきた。いまその数は、みゆき店で54店舗目を数えるまでになった。
イズミの創業は昭和21年。戦地から復員した山西義政会長が、広島駅前の闇市で古着を販売した。それがスタートだった。そして繊維の卸問屋をおこした。転機は昭和36年にやってきた。これからはスーパーの時代。山西義政はそう判断した。中国地方で最初のスーパーを広島市の中心部に作った。繁盛した。時代を見る眼が当たった。そして北部九州への出店で更なる飛躍をはたした。平成6年、北部九州への展開を始めた。そのシンボルとなったのが福岡市のベッドタウンに出店した「ゆめタウン筑紫野」だった。筑紫野市の郊外に食品などイズミ直営の店舗と大型の専門店などのテナントで構成する大型ショッピングセンターを作った。何でも揃う、ワンストップサービスの利便性が消費者の心をつかんだ。そのノウハウで各地に店舗を展開した。
イズミがゆめタウンを通して目指してゆくものは何なのか。イズミの成長戦略を探る。



放送日:2009年11月14日(土)
創業は昭和32(1957)年。社長の父、川伏男が現在の東広島市安芸津町でカキの仲買を始めた。広島県の特産カキは養殖。安定した取り扱いが出来ると乗り出した。生カキを扱い、その取扱量を増やしていった。生カキ以外に取り扱い方法はないのか。考えられるのは缶詰か冷凍。國男は冷凍を選んだ。大きな決断だった。ブロック冷凍のカキは使い勝手がいいと飛ぶように売れた。
更なる飛躍を目指した。昭和45(1970)年、株式会社クニヒロを起した。クニは名前からヒロは広島県のヒロから名づけた。そして原料と製品の一括管理をめざした。そのためには冷凍冷蔵庫が必要と考え昭和49(1974)年、思い切って建設した。しかし、それが裏目に出た。オイルショック直後で物が高くなり、大きな投資となった。冷凍は伸びると考えての決断だったが最初は売るところがなかった。一気に赤字に転落した。最大の危機だった。なんとかしなければとカキ以外の水産物加工にも乗り出した。最新鋭の設備をフル稼働させた。昭和49(1974)年に入社していた現社長の川譜迹「は水産物だけでなく総合食品メーカーになろうと新たな展開を目指した。「これからはスーパーの時代」と、スーパーへの対応も強化、昭和54(1979)年には黒字に転換した。そして1996年まで売上は右肩あがりをつづけた。平成3(1991)年に社長に就いた川譜迹「は「広島の特産をどう生かすか。広島から世界へどう発信して行くのか。それがこれからのクニヒロの課題だ。商品カテゴリーとアイテムをどう増やし、ニーズをどう喚起するかが課題」と言う。「あなたの食卓へおいしい食材を」を合言葉に、グローバルな視野で世界品質のおいしさに挑戦する。生産から販売まで一貫体制で世界を目指すとりくみを追う。



放送日:2009年11月7日(土)
1964年9月、呉市広町で創立。BENDAの社名はH型鋼、角鋼、パイプなどの一般鋼材の曲げ加工(BENDING)から名付けられた。当初は工作機械の販売を行っていたが、メーカーを目指して「冷間曲げ加工」と「溶接技術」などを用いた金属リングの製造方法を開発した。当時、曲げ加工するためには対象物を熱してやわらかくし加工するのが主流だったが、熱さなくとも自在に曲げ加工ができる技術を独自で開発し、その技術を活かした。丸鋼を長尺鋼材に冷間圧延した後、所定の径に曲げてから螺旋状に曲げ重ね、一本ずつに切断し、溶接して真円リングへと成型していく工法だ。
長年の改良・改善を経て、材料ロス(端材)が非常に少なく、高品質かつ高歩留まりの金属リング製造技術を確立、特に自動車のエンジン部品・リングギアの製造を手がけた。現在、トヨタ以外の自動車メーカー各社に納入する。国内だけでなく、北米、ヨーロッパ、韓国、中国の各自動車メーカーにも納入する。 去年の世界同時不況で前年比30%余も落ち込んだ自動車各社の売上も3月から少しずつ改善し現在50%改善したという。9月になると70%改善と売上が戻ってくると予測する。
いま、ベンダ工業は令間技術を生かして世界の15%の生産を行う。決して高い数字ではない。今始まったばかりの電気自動車の部品や風力発電など環境機器分野でも、ベンダ工法を活かして要請に応えて生きたいと意気込む。自社技術を活かし、エンジンだけでなく視野を広げて応用・具体化してゆく姿を追う。



放送日:2009年10月31日(土)
中国山地が連なる安芸高田市美土里町の小高い山上にあるのが「神楽門前湯治村」だ。門前の町並は昭和30年代の雰囲気を漂わす。新しく作った映画のセットのようにも見える。
神楽は300年前からこの地に伝わる。神楽門前湯治村には2300人収容の神楽殿が設置されている。客席は畳敷きの升席と椅子席。人気公演になれば観客は1000人を超え満席になることも珍しくない。温泉は天然ラドン温泉だ。温泉基準の6倍ものラドンが含まれている。山並みを望む露天風呂の人気が高い。門前通りには豆腐や味噌・漬物などの売り場が並ぶ。ともに地元の産品を使う手作りの加工品だ。食事処で働くのはほとんどが地元の人たち。神楽、温泉、そして食事や特産品販売までの複合的な施設となっている。この村は自治体と団体などが資本金を出して運営する第3セクター方式だ。官でも民でもない経営方式で町おこしをすすめる。
過疎と高齢化が進む町で町おこしをどう進めるか議論が沸騰したのは20年も前のことだ。着目したのが故郷自慢の神楽だった。美土里町には13もの神楽団がある。町民の5−6人に一人は神楽関係者。まさに神楽の町。これを生かせないか・・・そう考えた。そして、町を二分する議論が沸きあがった。税金を使って神楽を保護するのか。神楽で町おこしが出来るのか。だが神楽には町おこしに繋がるエネルギーがあると信じた。平成4年に工事に着手。温泉を掘り当てるという偶然にも恵まれた。こうして神楽を核に温泉と地元食文化を楽しむことのできる「神楽門前湯治村」が平成10年にオープンした。
オープンから11年。今年から外国人向けの新たな取り組みも始まった。外国語版のガイドも作成した。美土里町を訪れる観光客はかつては年間1万にも満たなかったが今では約17万人。町の誇りを取り戻す取り組みでもあった「神楽門前湯治村」。その設立と運営、過去から未来へ貫く夢をつづる。



放送日:2009年10月24日(土)
【広島発!夢の通り道〜ecoスペシャル〜】として、55分枠に拡大し、
地球環境保全への取り組みを強力にすすめる企業にスポットをあてます。
「地球環境」は急速に進む温暖化やそれに伴う気候異変など、「もはや引き返せないところまで来ている」と言われます。こうした状況に対して広島県内でも多くの企業が先進的取り組みを進めています。私たちの生活の中にあふれる「廃プラスチック」を有害ガスを発生させない「燃料」として再利用するシステムを構築する企業。宇宙線から地球を保護しているオゾン層を破壊する原因物質のひとつ「フロン」を大気中に放出させないため、収集したフロンを無害な物質に分解する「フロン無害化処理能力国内ナンバーワン」を誇る企業。屋上緑化でヒートアイランド現象防止を目指す企業。製品のリサイクルを進める企業など、「ひろしま地球環境フォーラム」に参加する企業の中から、いくつかの企業にスポットをあて、「エコ」に取り組む動機やとりくみの内容、そして夢を描きます。



放送日:2009年10月17日(土)
「明日(A)へ向けてまく種子(SEED)」は、自然と環境に感合して萌芽し花を咲かせ、豊かな果実を稔らせる。さらに根本が広がり、幹強く、安定した良樹となって、豊かな自然(社会)を形成していく。・・・アシードホールディングス(株)は、自然の摂理によって成長する樹木のように、社会の変化を予測して対応し、因果応報の理法に基づいて成長しながら豊かな社会の実現に貢献する・・・これが企業理念。「良質の選択〜人、環境、未来に。」を合言葉に、自販機運営リテイル事業、飲料製造事業、飲料カードシステム事業、不動産運用事業を運営管理する持ち株会社だ。
創業は昭和47(1972)年。現在の会長、社長などでスタートさせた。スーパーや小売店の冷凍冷蔵用ショーケースを設計・販売した。昭和48(1973)年からは「手動で出せるコーヒーサービスの機器」も扱った。次第に大型自販機に移行していった。そして、昭和51(1976)年ころから始めた事業所・工場へのへのコーヒー自販機設置がヒットした。日本で初めてのレジャー施設へのカップコーヒーの導入も瞬く間に広がっていった。当初はホットコーヒー専用だったが、昭和55(1980)年ころからは、自販機を更に追加し、乳飲料の販売も始めた。サプライアシステムを導入し、物流サプライ業務は外部に委託した。3人で始めた会社はいつの間にか5、60人になっていた。営業所を順次増やしながら、缶飲料の取扱も始めた。そして、ナショナルブランド自販機の管理運営も開始した。
現在の社名になったのは平成元年。M&Aを重ねながら、製造部門や販売部門を増やしていった。
平成5(1993)年には自販機オペレーターでは始めて店頭市場(現ジャスダック)に上場した。そして平成13(2001)年には東京証券取引所第2部へ上場。去年8月には不動産の運用、開発・管理事業を専門に行う、100%出資のアオンズエステート株式会社を設立、去年10月1日、会社分割により持株会社制に移行した。生産性の向上、グループの総和的企業価値の高揚が目的だ。成熟期に入った自販機部門では「国内での台数増は限界」と「省エネ対応」に転換し、「海外展開」に力点を置くなど、各事業会社が迅速な意思決定を行い、事業環境に機動的に対応し、競争力を更に強化する。
時代の変化にビビッドに対応し更なる夢の実現を目指す企業マインドを追う。



放送日:2009年10月10日(土)
日本の林業が衰退して久しい。山は荒れる一方だ。広島県の林業も同様だ。だが一方で戦後に植林された杉や桧は伐採の時期を迎えている。その資源の活用は出来ないのか。貴重な資源・木材を無駄にせず、木の持つやさしさ、あたたかさ、強さと心地よさを活かし、徹底的に木にこだわって注文住宅を作る。それが山根木材の企業理念だ。
本社は広島市南区出島にある。社長は山根恒弘、67歳。従業員200人、年商90億円。「木を無駄なくどう生かすか、これまでもそうだったし、これからもそれが山根木材の基本精神であり不変のテーマだ。まして環境問題が重く圧し掛かるいま、資源を活かすのは企業の責任だ」山根社長はそう言う。
明治43年、社長の祖父、山根才吉が、木材船の材料を仕入れる仕事を始めたのが山根木材のスタートだった。商才のあった才吉は昭和の初め現在の韓国にも進出、4人の子どもが製材所も持つ木材会社を守り立てた。だが敗戦。広島に引き揚げて、一面焼け野原の西白島で木材業を再開。社長の父、利夫が会社を牽引した。木材から製材にも手を広げた。そして「木を生かすには建築だ」と、昭和45年頃から住宅建築に進出した。
製材会社から住宅建築への決断。40年で9000棟の実績を残した。地場大手のハウスメーカーになった。
そして9年前からは古民家の再生・リフォームも手がける。「木を生かす。それは住宅を長く使うことでもある。作っては壊す時代ではない。」との信念からだ。民家再生は評判を呼んでいる。
「資源をどう活かすか、資源をどう循環させるかが企業の果たすべき役割だ」と言い切る山根木材の軌跡と夢を追う。



放送日:2009年10月3日(土)
宮城道雄作曲の名曲「春の海」は福山・鞆の浦の風景をイメージして作られたと言われる。その福山で琴の製造が始まったのは福山藩の初代藩主・水野勝成が福山城を築いた江戸時代初期。歴代藩主が歌舞音曲を奨励し、福山は「琴の町」と言われるようになった。その伝統を受け継ぎ、日本一の琴生産量を誇るのが小川楽器製造だ。社長は小川賢三。今も現場に立つ。最終仕上げの確認は社長の仕事だ。小川社長は福山の琴職人では最年長だ。60年近くこの仕事を続け、本物をつくることにこだわってきた。賢三の父、小川定男は戦前から琴職人だった。戦後の昭和21年、独立して小川楽器店を開いた。戦後の復興が始まったばかりで、琴を楽しむような雰囲気はなかった。賢三は細々と琴造りをする父の姿を見て育った。そして職人がいないといわれ高校を出て、父親を手伝った。
当時丸太から琴の形を切り出すには、職人が大のこぎりで製材した。力仕事だった。どうにかならないか。小川は琴造りの近代化、機械化を目指した。小川は円筒ノコを応用して甲挽き用の電動機械を作った。従来の10倍のスピードで甲挽きができる画期的な機械だった。特許もとった。
高度経済成長で暮らしにゆとりが出始めた昭和40年ごろ琴の生産は最盛期を迎えた。年間生産量は3万面。小川楽器製造は1万面を作った。だがブームは長くは続かなかった。
子どもの数が次第に減少し、琴の需要は減り続けた。「琴を楽しむ人が増えなければ売上げは伸びない」と、子どもたちに親しんでもらうことを考えた。子どもが持ち易く、調弦や糸の張替えが簡単に出来る琴、従来より40センチ短い「新福山筝」を開発した。今、福山市内の小学校ではその琴を取り入れて指導が行われている。文部科学省も学習指導要領を改訂し、小中学校での和楽器教育が始まった。小川社長は琴のよさは「その音色にある癒し」だと言う。
琴を求める時代が必ずやって来ることを信じて本物を作り続ける小川楽器の取り組みを追う。



放送日:2009年9月26日(土)
ヘルメット・作業服・安全靴姿で工場内を見回るメンテックの小松節子社長。社長になって今年で6年になる。この6年間、小松は現場主義に徹してきた。時間があれば現場に出る。そして生まれる社員とのコミュニケーションを大切にする。本社は東広島市八本松町にある。船越、海田、矢野に分散していた工場をこの工業団地に統合した。売上は約18億円。自動車工場設備のメンテナンスが売上の70%を占める。空調などのダクトの販売が20%、10%が環境ビジネスだ。特に薄板金属板を加工して作る「スパイラルダクト」は県内でオンリーワン、中国地方でも高いシェアを誇る。現在力を入れているのが環境ビジネスだ。将来は50%まで増やしたいという。ダイオキシンやアスベストを除去するロボットなどの商品化を目指している。
メンテックの創業者は小松健太郎会長だ。6年前妻の節子に社長を任せた。会長は新たな研究開発を担当する。「今では当たり前のメンテナンスという言葉だが創業当時はまだ一般的ではなかった。設備を維持管理するという概念もまだ希薄だった」と小松会長は振り返る。昭和40年独立してメンテナンスを請け負う東洋メンテナンスを広島に起こした。メンテナンスのパイオニアだった。小松はメンテナンスが快適さを保つだけではなく、生産性向上にも貢献すると提案し続けた。その提案力と技術開発がメンテックの成長を支えた。いまその延長線上で取り組むのは環境ビジネス。アスベスト除去ロボットの研究だ。今後さらに環境ビジネスを強化し、そのことによって社会貢献できる企業を目指す。メンテナンスから時代が求める環境保全へ。新たな挑戦を続けるメンテックの企業マインドに迫る。



放送日:2009年9月19日(土)
梨の県内生産量の7割を占める世羅台地。その中心にあるのが世羅幸水農園だ。いま、一番早く出荷が出来る品種「愛甘水」の収穫がすすむ。世羅台地に農業の拠点を作る話が持ち上がったのは昭和36年だった。梶川静一が「梨をつくろう」と呼びかけた。昭和38年、地元の農家26人が農業組合法人・世羅幸水農園を作った。果樹試験場の勧めで赤梨の幸水を栽培したが順風満帆ではなかった。「幸水が世羅の土壌に合うのか」疑心暗鬼で始まった栽培だった。土壌改良をすすめ栽培方法も工夫を重ねた。あれから46年。「協力して農園を作ろう」と協業をテーマに理想の農園作りを目指してきた。選果場には最新設備を導入、品質管理を徹底した。そして世羅梨はいつしか全国ブランドになっていた。いま56ヘクタールで年間1100トンを収穫する。
組合員の世代交代も進む中、若い女性たちも農園に就職し農業に携わる。国内では農業の危機が叫ばれる中、ここでは未来に向けての理想の農園作りが進む。今年も観光農園がオープンし、大勢の観光客で賑わう。「この賑わいを46年前には予想していただろうか」・・・「協業」で夢を実現した農家の人たちの努力と更なる未来への夢を描く。



放送日:2009年9月12日(土)
創業者は渡辺礼市。現在の社長の父だ。渡辺礼市は戦後の混乱の中で引揚者や戦災孤児のための授産所を開いた。生きていくための仕事を見つけ職業訓練も施した。仕事の一つが当時駐留していた米軍のベッドの修理だった。昭和25年創業、広島ベッド商会を起こし製造と販売を手掛手掛けた。そして昭和32年には製造部門が独立しドリームベッドとなった。社名は当時、新聞で公募した商品名からつけられたという。夢(ドリーム)に希望を託した。
創業から59年。安芸高田市の八千代工場でベッドが製造されている。ベッドの生命線は自然な状態での眠りを保証すること。このために開発したオンリーワン商品「円錐型ポケットコイル」。体を自然な状態で支えるコイルだ。本当に快眠できるベッドの要件は何か、広島国際大学との共同研究を続ける。社長は「暮らしの中の快適さをめざし新しい文化を創造する役割を果たしたい」と言う。「空環」をキーワードに空間と環境への新文化提案を目指すドリームベッドの企業マインドに迫る。



放送日:2009年9月5日(土)
むさしの前身は加古町(旧:水主町)中央市場で青果業を営んでいた浮田青果。朝の早い青果業の朝食は一仕事済んだ午前10時頃だった。一生懸命働いてくれる若い衆のためにとむすびを作って持っていったのが、むさしの現副会長の浮田恵美子だ。青果卸業はすぐには現金収入につながらず”貸し”になるため、現金でできる商売はないかと模索していたところ、良い出物があり、昭和33年7月、店名を「むさし」として一号店を開店した。
うどん屋だった。むさしの一号店だ。数年後、客も増え経営も軌道にのってきたため、市場で評判だったむすびを出すことを決めた。全て恵美子の手づくりだった。素材は厳選した。米はハデ干しのものを使った。海苔も最高級のものを使った。むすびが良く売れるようになってから、今度はそれを弁当にして販売した。「自分たちがむすびを何百何千作ろうと、お客様は一人一人が召し上がるのだから、その一人に満足いただけぬ弁当は作るな」が合言葉だった。そして去年、創業50年を迎えた。「買って下さる人のために、従業員のために」と励んだ50年の歴史と貫く夢を描く。



放送日:2009年8月29日(土)
1962(昭和37)年、「中国計算センター」創業以来、地域におけるIT業界のリーディングカンパニーとして実績を積み重ねて来た企業だ。最初は社内に大型コンピュータを置き、客からの依頼を受託計算した。しかしまもなく、どの会社でもコンピュータが持てるオフィスコンピュータの時代が到来した。オフィス用コンピュータ販売に転じた。またしばらくすると、ハードウェアはどんどん安くなった。今度は誰でもパソコンを持てる時代になった。社業は更に転換した。ハードからソフトの時代への転換にあわせ、「ソフト」「サービス」「コンサル」が主体となった。
急速に変化するIT時代とともに、社業は転回した。つい先日まで各社に大型コンピュータが必要だったが、今は違う。高速化したネットワークを使えば大型コンピュータは必要ない。ネットワークで大型コンピュータと結ばれていればいいのだ。大型でなくとも多くの小型コンピュータと結ばれることで同等の機能を発揮することもできる時代になった。良いソフトをセンターに登録しておけば、全世界からそのソフトが使える時代なのだ。ソフト開発を重視する所以だ。ソフト開発は日本で設計し中国で作る。5代目にあたる亀山創社長の指導のもと、ますます国際化するIT市場をにらみ挑戦をつづける企業の姿を描く。



放送日:2009年8月22日(土)
1918年(大正7年)当時の段原町で「西井伊久馬商店」として創業、自転車用の鑑札など銅真鍮美術細工、建築造船用金物を製作した。昭和7年には社屋を宇品の現在地に移した。昭和9年には満州でも鑑札を販売、太平洋戦争勃発当時には呉海軍工廠の監督工場になった。終戦前には山陽商業学校2年生を学徒動員で受け入れ、あの日、工場は全壊した。戦後、社名を「西井製作所」に改め、消火器、島根、佐賀、長崎、熊本各県の自動車登録番号標の製作・納品を開始した。
昭和29年には仏壇飾り金具の製作も始めた。ナンバープレートはモータリゼーションの活況とともに急伸し、昭和33年には福岡工場を開設、福岡県のナンバープレートを製造した。創業50年の昭和43年を過ぎた頃から、高度経済成長の波に乗り、製造品目を急増、棺飾り金具、電鋳製品、治具、金型、などを製造、取引会社も順調に増加した。その後も時代の求める新製品を開発し続けるとともに、ナンバープレートの納品県も増やした。
現在の社長は4代目にあたる西井裕昭だ。平成17年に就任した。現在、ナンバープレートの製造が社業の40%を占める。そして航空機部品、半導体金型が多い。入社当時は10%はあった仏壇部品は、時代の変化とともに減少し、今では1%程度となっている。これまで「鑑札の廃止」「バブルの崩壊」「そして去年からの世界不況」と幾度も落ち込んだ時があった。鑑札廃止の時には仕事量が7割低下した。リストラもした。しかしそれが正しかったのか……疑問を持ち、それ以降はリストラはしていない。
西井社長は「企業は最終的には人を育て人間性を磨く所だ」「技術と人間性を磨く場であり続けたい」と両面の研修を進める。「図面どおり作るということではなく、ありがとうと感謝される、温もりのある製品を作っていきたい」とコミュニケーションと連帯を基本とする製品作りに挑戦する姿を追う。



放送日:2009年8月15日(土)
現社長の父が1915(大正4)年創業した。靴下を作った。戦時中は軍隊に軍足を納入した。手回し編機で製作した。江田島で長くやっていたが、その後呉市海岸通りに工場を作った。昭和の初めだった。現在の場所・安芸津には昭和16年に移転した。呉が手狭になったのと、企業誘致に応じての移転だった。女性の働き場が無かった安芸津の要請に応えた。現社長は戦時中は代用教員をやっていたが、戦後になって社業に関わった。監督工場でもあったので終戦までやった。当時江田島には30軒もの軍足工場があった。
昭和20年代半ばまで軍足を製造したが物資の無い時代飛ぶように売れた。その後、婦人会が購買活動を始めたのでそこへ供給するようシフトし業績は急上昇した。エンドユーザーと直接取引きしたのが成功した。筒編みから、かかと編みへ進化する時期だったが、機械を導入して自動的な製造が可能になった。
現在は実際の経営は専務が引き受けている。専務が神戸大修士課程を中退して実家にもどったのは昭和51年、28歳の時だった。大学時代に実家のアルバイトをし営業に出たことがあった。婦人会長を訪ねた時「足が冷える」「一回で2枚の靴下を履ければ」という声を聞いたことで靴下研究のとりこになった。20歳の時だった。6・7年後に「二重靴下」として商品化した。特許も申請した。縫い目の無い靴下を開発、昭和56年には「エックス縫い」を完成させ、昭和59年特許を取得した。量産しようと昭和61年には独自のミシンも開発した。二重靴下は全国で年間300万足の需要があるが、パールスターではその内20万足を生産する。
しかし、順調だった靴下生産が止まったことがある。平成7年1月に発生した「阪神淡路大震災」の時だ。当時、パールスターは京阪神方面の繊維産業(靴下の発注元)との取引がほとんどだった。下請として靴下を生産していたからだ。この震災でそうした発注元も大きな被害を受け、受注が中断した。そして、長期にわたる受注中断でパールスターではリストラを余儀なくされた。
そして更に靴下は進化している。広島大学との共同研究で「足先の上がる靴下」を開発、高齢者の方々の転倒事故対策製品として注目されている。「販売数より喜びの数が大切」との信念で補装具以上の効果がある靴下開発を続けるオンリーワン企業の営みを描く。



放送日:2009年8月8日(土)
広島市段原新町で昭和2年に創業した。愛宕町にあった祖父の叔父・イシカワさんから暖簾分けしてもらっての創業だった。昭和20年、会社は比治山の陰になり原爆での倒壊は免れた。父は東洋工業の旋盤工だった。物価統制令で家業の煎り豆づくりはできなかった。22年5月になって煎り豆づくりを再開した。作れば売れる時代、原料を北海道から仕入れ、甘納豆などにした。よく売れた。3代目にあたる現社長は昭和21年生まれ。昭和44年に入社した。2代目の父が社長になったのは昭和49年だった。父はアイデアマンだった。昭和45年ころから業績は右肩あがりだった。しかし平成に入ってからは安い中国産に押された。食生活の西欧化と中国からの安い原料のダブルパンチだった。また節分など日本的行事も次第に少なくなった。売上は低迷した。
しかしここ2・3年は復活の兆しが見える。平成9年苦しい中で新工場を建設した。伝統的な豆菓子は少なくなりスナック豆やドライフルーツが売れる時代になった。何か良い大豆製品はできないか……。そんな時、社長の妻が骨折し骨粗鬆症と診断された。家業の豆を利用して骨粗鬆症対策はできないだろうか……平成19年の広島県の産学連携研究助成金を受けて広島大学との共同研究を開始した。そして黒豆に牡蠣殻粉末をまぶす手法でカルシウムが摂れるよう工夫した「カルシウム黒豆」を開発し商品化した。
この豆の開発には妻も研究員として大きな役割を果たした。自身が実験台となりこの豆を1年にわたって食べ続けた。その結果見事に骨粗鬆症を克服した。カルシウム豆はJAS法で定められた「栄養機能食品」として認められ、評判になった。社長は今「カルシウム豆が評判になるとは思っていなかった」と当時を振り返る。
「製品の安全のため」と今使っている大豆は殆んどが国産品だ。JA広島中央と契約し国産の黒大豆を導入するテストや、県の農業試験場で栽培研究も行っている。国産品の価格高を何とかしたいとの思いからだ。現在、英・米・仏・独にも製法特許を申請中。近未来に宇宙での長期滞在で骨密度を下げないためにこのカルシウム豆が使用できるよう開発を進める。
大豆のことなら何でもござれと研究開発を進める企業の歴史と夢を描く。



放送日:2009年8月1日(土)
1951年(昭和36年)、現会長の児玉達朗が起した「児玉青果店」が始まり。達朗は農家の次男だったが食糧難の時代に育ち、「食べ物を扱いたい」と大阪の市場で奉公したあと帰郷して八百屋を始めた。野菜と果物を扱った。そして29歳で創業した。八百屋の野菜が売れ残るのはもったいないと漬物にして販売した。商標は○に達、マルタツ。タッつぁんと呼ばれた。朝4時におきて誰よりも早く市場に行き良いものを手に入れた。1972年(昭和47年)こだま食品(株)を設立。モノ作りが好きで、加工食品を作り販売したいと始めた漬物屋だ。広島菜漬も入れた。当時テナントとして福山駅ビルにも入った。1987年(昭和62年)こだま食品は販売会社として残し、漬物製造会社広栄漬物を設立した。1989年(平成元年)乾燥野菜工場完成。市場で折れたり曲がったりした大根を安く買い漬物にした。漬物に加工しても余るので乾燥することを発想した。3年後、先行き拡大の目処が無い漬物に見切りをつけて乾燥に一本化した。
そのとき、帰郷して父の会社に入社していた現社長の昌造は、入社から3年が経過していた。父とともに熱風で乾燥する「寒干し大根」を作った。そして製品をもって全国を回り営業した。父は北海道、息子は九州と回り、デパ地下などで販売した。定着に5年ほどかかったが、そこからは乾燥一本になった。そのうちに原料を中国から輸入するようになったが、釘やごみが混じっており、当初は使い物にならなかった。そのため平成14年、良いものだけを仕入れるため上海こだま食品を設立した。更に2005年(平成17年)こだま安全農試有限会社を設立、安全な農産品の確保・販売に力点を置いた。そして2008年(平成19年)農業生産法人こだま試験農場を設立、有機野菜の生産体制を整えた。安全な野菜と乾燥野菜供給のため農業に踏み出したこだま食品の活動を追う。



放送日:2009年7月25日(土)
大手企業のコンピュータシステム受託開発を主力に、1981年(昭和56年) 内海良夫現社長ら3人で創業した若い企業だ。創業当時プログラム作りはすべて手作業だったためプログラマー30歳代引退説なども出るほど厳しい仕事だった。そこで翌年から知識集約型の自社パッケージソフト開発へと方向転換、ガソリンスタンド業界の顧客管理システムや、養豚業界向けの生産管理システムなどを手がけた。「先見性」を武器に潜在的ニーズや発展性の有無を見極め競争に勝ち抜いてきた。15年以上前から医療分野のシステム作りに尽力、システム開発、データーベース構築、徹底したアフターフォローで、支持を得ている。レセプト(医療費請求書)発行システム開発もその一つだ。「企業は社会の進化と未来の環境に貢献できるものでなくてはならない」というのが内海社長の持論だ。その実現のため「人間力」養成にも力を入れる。「先見性」「技術開発」「人間力」で未来を切り開こうとする取り組みに密着する。



放送日:2009年7月18日(土)
テイケンは呉市川尻町に工場を置く研削トイシ専業メーカーだ。1936年(昭和11年)、現社長・小尻雅芳の祖父が川尻町で(有)帝国研磨砥石製造所を設立、人造研削砥石の製造を始めたのがスタートだ。ノコの目立て業者に目立て用砥石を卸した。戦後1953年(昭和28年)(株)帝国研磨砥石製造所に改組。ヒトリファイド研削砥石のJIS表示許可工場に認定された。その後、父の時代に東京に進出するとともに、川尻町岩戸に工場を新設移転した。そしてレジノイド研削砥石、マグネシア研削砥石を相次いで生産開始した。雅芳が社長に就任したのは1984年。1985年には超砥粒(ダイヤモンド、CBN)砥石の製造も開始。そして1986年に社名を「帝国研磨」から「テイケン」に改めた。研削砥石は、加工が難しい加工物を高精度に加工するためには無くてはならない。私たちの身近にあるデジタル製品、精密機械加工、工作機械、刃物などは砥石なくしては製造できない。加工には日々より高い精度と新素材への対応が求められてきた。そうした要求に応える技術、新製品開発を続ける。苦しい時代もあった。給料の遅配もあった。それを克服したのは社員の力「人財」だという。今、営業マンは全員、1年に4日間は、研削盤を使って実習する。得意先での対応で即座に問題解決ができるよう使いこなし方を学ぶ。雅芳は創業時からあった「社員が幸福でなければならない」との思いを、社長になってから「企業理念」とした。「いっしょにやってくれる社員の面倒はとことん見る」「社員が幸せでなければお客も幸せになれない」と言い切る。不況の時代「人財」こそ大切と人材育成にとりくみ近未来に可能性を育むとりくみに密着する。



放送日:2009年7月11日(土)
神石郡神石高原町に本社を置く芝生専門会社。広島新球場内外野の芝生も手がけた。現会長の宮池誠文が終戦後開拓団として入植した神石町で苦労してこぎつけた道だ。「継承入植」の募集があった昭和31年に入植。家も草葺、作物も育たず入植者も逃げ出す環境の悪さの中で、艱難辛苦を耐え、テント生活をしながら山の松を切り倒して畑を作った。強酸性の黒ぼく地で作物のできは悪かった。畑に堆肥を入れるため牛を飼ったが子牛の代金を償還期限までに支払えず昭和46年に牛はやめた。その頃、それまで細々とやっていた芝生の需要が急伸した。ゴルフ場建設ブームだった。オイルショックのあと、久井カントリークラブの芝工事を受注した。他にできることは無かった。芝工事に賭けた。昭和47年、山陽芝生(株)を設立、本格的に芝を商売にした。効率的に芝植付けを行う機械を次々に開発、富士三次CCでは大成功を収めた。昭和62年頃だった。そして「ゾイシアンジャパン」を設立、芝工事だけでなく、芝の開発・商品化を目指した。日本芝の中から良いものを選び新品種を開発した。最初に開発した「ヒメノ」は一見高麗芝のようだが短く一年中生え、根が硬い。平成13年に新品種登録も完了、美土里小学校の校庭にも使われた。野球場や競技場用に「ネットに芝苗をはさんで植えつける」方法を開発し機械化に成功した。1,000人役かかっていたものが1日で済むようになった。サッカー場芝生工事などで活躍した。そして芝製造育成技術が認められ、今春完成した広島市の新球場芝生工事も担当した。今は息子の健が社長を務める。3月28日の新球場完成式典のあとの見学会では、感慨深そうに緑の芝生を見つめる誠文の姿があった。芝生にかけた人生とゾイシアンジャパンの活動を描く。



放送日:2009年7月4日(土)
明治20年、寺岡家第10代当主・寺岡伍一が本物の有機醤油を作り始めて以来、かたくなに有機醤油醸造を守っている老舗醤油製造会社だ。創業から今年で122年になる今も、杉桶による昔ながらの伝統製法を守り続ける。名水といわれる福山市神村町の地下水を使用し、創業当時のままの57の杉桶で長期熟成させる。旨みとコクがあり、ミネラルに富むのが特徴だという。現在の社長・寺岡晋作は伍一のひ孫にあたる。伍一は松永で製塩業も手がけていた。明治・大正・昭和と塩田の面積を広げていた。しかし、3代目社長である晋作の父の時代に製塩は化学製塩に変わり、塩田製塩は衰退した。松永の製塩も昭和35年に幕を閉じた。父が塩田跡で始めたのが自動車教習所だった。昭和50年、有機醤油の原料である大豆・小麦を栽培するため残りの塩田跡を埋め立て、約3万坪(約10ha)の農地を造成し、有機農場をスタートさせた。醤油の原料のほか、野菜も作った。有機栽培に徹した。それが時代の求めるものだと読んだ。4代目の晋作が社長になったのは平成4年。寺岡有機農場は平成6年から法人化して無農薬有機栽培に取り組んだ。主幹作物の小麦・大豆をはじめ野菜等の作物を有機栽培した。平成13年2月には農水省の有機JASを取得、全国的にもまれな大型有機農場となり、オーガニック時代に対応する農場として営農を行う。明治20年創業の精神を今に引き継ぐ寺岡有機醸造の歴史と信念、そして未来への夢を描く。



放送日:2009年6月27日(土)
フマキラー株式会社は、殺虫剤など衛生薬品の製造・販売を行っている日用品メーカーだ。本社は東京だが創業地は広島で、廿日市市に工場がある。金鳥、アース製薬と並んで家庭用殺虫剤のシェアを寡占し、アジア、ヨーロッパを始め、海外にも子会社が進出している。フマキラーの歴史は日本の殺虫剤開発の歴史と言ってもいい。除虫菊を棒状にした蚊取り線香から始まり、そのエキスから作ったフマキラー液、創業者で現社長の祖父・大下大蔵が「フライ・マスキート・キラー」をもじって「フマキラー」と名づけた。そして電気式のベープ、25年前に電池式にかわった。これらはどれも世界初の挑戦・開発の歴史だった。企業スローガンは「日用品質」、日々の暮らしに相応しいクオリティの確保だ。使う人の立場に立った製品を提供する―。創業は明治23年。広島で薬種業を開いたのが最初だ。爾来およそ120年。毎日の暮らしに笑顔を増やしていくことを願って“暮らしを快適にする”製品を届けてきた―。現社長は大蔵から数えて6代目の大下一明だ。兄が会長を務める。創業以来の伝統と製品開発の歴史に迫る。



放送日:2009年6月20日(土)
1931(昭和6)年、現社長の祖父望戸卓児氏が大竹市にて創業、昭和10年に会社を設立した。ゴムを使ってラップのようなものを作り、マツタケにかぶせて保存性を生かそうと考えた。しかし、うまくゆかず、農業用手袋開発に切替えた。ちょうど綿の手袋からゴムの手袋に切り替わる時代でもあり成功を収めた。以来今日まで、ゴム・ビニール手袋、放射性物質取扱い用手袋、医療器具・医療用機器まで幅広い分野に対応する製品を生み出してきた。特に手術用手袋では国内シェアナンバーワン、60%を誇る。品質に対する高い信頼に支えられ日本国内だけでなく、業界のパイオニアとして、グローバルな発展を遂げている。時代の変化と共に多様化するニーズに対応すべく研究・開発を進め、信頼される商品を迅速に届けてきた。また、医療分野だけでなく、食品衛生分野、原子力産業分野、特殊技術分野まで幅広く対応しているのが特徴だ。5代目にあたる現社長は昭和57年入社。4代目社長だった父の後を継いだ。企業理念として「Communication」「Life」「Health」の3つをあげる。「確かな技術で一人ひとりの【健康】を創造する」を目指し奮闘する。



放送日:2009年6月13日(土)
「ビーズメーカー」は日本には3社しかない。そのうちの1社がトーホー(株)だ。ガラスの小さな玉は遠い昔から人類の稀少な宝として貴ばれ、愛され、親しまれてきた。日本でのグラスビーズ製造は昭和初期、広島県福山地方で家内工業的に始まったという。トーホー(株)は、昭和26年、新市町出身の創業者・山仲一ニ氏が広島で始めた。技術の向上と設備革新をすすめた。今日、国内シェは60%、売り上げの内輸出が3割を占める。名実ともに世界一のグラスビーズメーカーだ。現在、実務は山仲社長の孫にあたる山仲巌取締役社長室長が担当する。現下の世界不況の中でも輸出は堅調だが、国内市場は頭打ちだ。34歳と若い本部長は「新商品開発・新市場開拓が急務だ」という。安佐北区可部に「ガラスの里」を作って今年で25年になる。体験工房は海外の人にも人気があるが来館者は減少している。日本最大の「東京ホビーフェア」での展示・講習会や、アメリカでの展示会と、国内外へ売り込みを強め奮闘する姿を描く。



放送日:2009年6月6日(土)
日本の造船事業と共に育ってきた企業。その歴史は40年に及ぶ。主に船舶用のアルミサッシ、アルミドアー、アルミ製漁船、アルミ製高速艇、アルミ製ボート、アルミ製ガラスサンルーフ、アルミ製上部構造、 舷梯装置、プロビジョンクレーン、陸側ギャングウェイ装置、RORO装置、ハッチカバー、水密滑戸、サイドポートドアー、バルクヘッドドアーなどを製造する。特に舷梯装置、舶用窓・ドアー、水密滑戸では、日本国内の7割のシェアーを確保、世界でもトップの座を維持する。卓越した開発力とコスト競争力で5割以上のシェアーを目指す。「いい商品を安く納期通りに」をモットーに発展を続ける。あくなき新技術への挑戦を追う。



放送日:2009年5月30日(土)
1963(昭和38)年4月、小川次郎が広島市江波で金属銘鈑製造を個人で創業したのが始まりだ。1977(昭和52)年資本金300万円で現会長の小川芳範が代表取締役に就任、有限会社小川銘鈑製作所を設立、真鍮版で文字を作りメッキ加工して他の業者に収めた。そして、1987(昭和62)年、広島市安佐北区安佐町に本社・工場を新設、移転。この頃年商は9,000万円ほどだったが、将来を考え1億円かけて「レーザーマシン」を導入した。金属サインを製作するためには不可欠の機器であり、思い切った決断だった。完璧に使いこなすには1年を要した。2年後にはもう1台導入した。製品の納期が大幅に短縮でき、価格競争でも勝負できるようになった。そして金属装飾サイン・LEDサイン製造のほか、コンピュータシステム開発にも取り組んだ。他社との差別化を実現した。3年ほど前から住宅建築の激減や鋼材の値上がりなどで業況は良くない。しかし、競争力のUPで売上は堅調だという。去年3月には太陽光パネル事業について石井表記と業務提携し太陽光パネル製造に取り組み始めた。そして、去年11月、芳範は会長に就任し、弟の佳輝が社長に就いた。「環境」を大目標に伝統の金属サインと新規事業・太陽光パネルに挑む。「信用」「正確」「スピード」をモットーに積極経営で世界を目指すとりくみに密着する。



放送日:2009年5月23日(土)
1911年、旧安佐郡高陽町で平岩喜佐衛門が創業した平岩商店が嚆矢だ。以来、米穀店、食糧企業組合、そして中部食糧と、米穀を扱う専門業者として成長した。そして1985年業務用食糧販売部門が独立して「アクト中食」として新発足した。これが現在の会社のスタートだ。自動受注・発注システムや、冷凍冷蔵庫、玄米低温低湿倉庫などを相次いで開発・設置し、業務用食糧スーパーを展開した。2005年には業務用スーパーは70店舗に達した。そして今、「菜食事業部」「米穀事業部」「業務用食品スーパーFC本部」「アグリプロデュース」と4部門を主体に“大型食品流通企業”として成長をつづける。外食産業に対する消費者のニーズは、ますますスピードを上げて多様化する中、旬の食材、健康志向、安心・安全、低価格メニュー等、顕在・潜在化する消費者ニーズに適切かつ迅速に対応すべく日々進化をつづける。食品流通コングロマリットとも言える「企業集合体」に昇華しつつあるアクト中食の現状と未来を見据える。



放送日:2009年5月16日(土)
1921年、鋳造用木型製作の会社として創業。祖父は木型職人だった。教育に熱心で広島の木型職人を数多く育てた。オイルショック後、効率が問われる時代になり、3次元造型機LO(Laminated Object Manufacturing)を導入。以来、型の3次元形状加工技術を基軸に業務内容を拡大した。現在では国内外の自動車メーカーが主な取引先だ。精密鋳造品、鋳造用金型、試作用プレス金型、プラスチック成形用金型、車体組立用溶接治具・自動化装置などを設計製作する。今西製作所のモノづくりの特徴は、永年の型技術、素材技術の蓄積による「匠の技」と最新のコンピュータ支援による「デジタル技術」を融合させた独特のノウハウで各種金型や生産設備の設計製作からトライアルに至るまでスピーディーに一貫生産する点だ。また、社長の今西寛文は、本物のモノづくりの喜びや誇りを受け継ぐ人材育成に力を注ぐ。「何が何でもやる」「今できることをやる」を合言葉に未来の夢を追求する姿を追う。



放送日:2009年5月9日(土)
味付ちりめん、佃煮、煮豆、惣菜等の企画・製造・販売を行う尾道の総合食品メーカー。創業は220年以上前の江戸時代中期(安政年間)の老舗。尾道は北前船の寄港地として大いに栄えた。そこで綿問屋を営んでいた「福光ヤ」が、現在の福利物産の前身。それから200年以上、その時々に合わせて自らのスタイルを変えながら現在までの歴史を紡いできた。昭和30年代、海産物問屋からメーカーへと事業を移行し、仕入れのノウハウを活かした高品質の製品づくりで、確固としたポジションを手に入れた。そして昭和50年代、きざみ昆布をちりめんに混ぜた新製品「味付ちりめん」をいち早く開発、全国的に大ヒットし事業基盤を確立した。以後、開発型メーカーとして現在に至る。常に変化を志向してきた福利物産。今後の展開も現状からは予測不能だと7代目社長福島光宏は言う。守ることより創ること。将来を創るのは「これから」だ。そんな老舗企業の継続のノウハウと未来を描く。



放送日:2009年5月2日(土)
1967年、社長の山本静司が他のハウスメーカーから6人の仲間とともに独立して設立した「創建設工業」が前身だ。「お客さんに建物を合わせる会社に」「敷地・家族に合ったものを普通の価格で」を目標にした。勝算はなかった。只安く供給できれば売れると思った。「信用力」が何も無いところから始める不安はあった。東広島から活動を開始した。キーワードは「夢」だった。最初は設計の下請などをやったが、一ヶ月たたないうちに一戸建てを成約した。デザイン・設計は自社で「お客に合わせて」がキーワードだった。他メーカーと違い財力が無い分「如何に工夫で乗り切るか」を熟考した。その後「ぜひ山本さんにお願いしたい」と受注が相次ぎ、あっという間に1億円ほどの家を建てた。「創建ホーム」を設立して1年目に1億8千万、2年目3億の売上げがあり、やっていけると思った。9年目には50億円に達した。しかし、今から8年前の平成13年、売上げは30億に落ちた。その前の50億が行きすぎだったと気付いた。反省せずに60億を目指したのがいけなかった。住宅メーカーとしてのあるべき姿を考えた。それからは7期連続増益を続ける。その秘訣を山本は、社員のレベルアップと設計・施工のレベルアップだと言う。営業重視、現場重視で人材育成を徹底する。山本社長の夢追い人生を描く。



放送日:2009年4月25日(土)
江戸時代、保命酒の独占製造販売許可を得ていたのは、最初に保命酒を造った中村家だけ。その伝統の技を受け継いだのが、当時中村家と懇意にしていた岡本家だという。安政2年(1855年)、清酒醸造を始めた岡本家は、廃業した中村家から道具一式を譲り受けて、保命酒造りを始めた。今も店頭には当時の『大きな龍の看板』を掲げている。江戸末期、ペリーが浦賀に来航した時、接待用にふるまわれた酒が鞆の保命酒だったことが最近になって古文献から発掘された。今年は、万治2年(1659年)に鞆の浦で保命酒が造られ始めて丁度350年となる、節目の年だ。日本古来の酒文化を大事にし「鞆保命酒」の伝統を今に伝える営みに密着する。



放送日:2009年4月18日(土)
主にプラント実験装置の開発と製造を行ってきた技術立社企業だ。高温高圧・真空実験装置、石油化学、新エネルギー、食品化学、原子力工業、メタノール合成、繊維化学、鉄鋼、製紙、各種溶剤と、高い質と精度が要求される分野で技術を蓄積してきた。それらは世界に一つだけのものもある。そうしたノウハウの一部を応用して各種装置の自社開発も行っている。食品分野では「カニの殻むき機」「冷凍魚の自動切身装置」「短時間でスパゲッティをゆであげる装置」等を開発、正確さ早さで好評。「生カニ足皮むき装置」では第19回発明大賞特別賞を受賞。また1996年に科学技術庁の注目発明賞、2000年には超臨界装置でニュービジネス大賞特別賞を受賞している。環境問題が深刻化する今、エコロジーやリサイクル分野にも取り組む。桧廃材からオイルを抽出する装置も開発している。「世界でひとつだけの装置を開発しつづけ、そこで培った経験とノウハウを少しでも社会に役立て貢献してゆきたい」と語る野口賢二郎社長。特殊技術を生かし挑戦し続ける姿を描く。



放送日:2009年3月29日(日)
アクセは今注目される「セレクトショップ」店だ。国内外の300ブランドをそろえる。中には中四国ではここしかないという「一点もの」もある。尾道で1925年祖父が創業した洋品店が前身。セレクトショップを開いたのは1992年、最初は長男と三女が2人で始めた。その後次男、三男も加わり、1997年福山店、1999年尾道に2店目の「アクセ2」を出店した。そしてこのころから経営は軌道に乗り始めた。福山にも2店目を出し、売上は2倍以上に増えた。2001年、広島にも出店用地を取得、2003年にオープンした。そして、2004年4月長男の圭一郎が社長に就いた。2004年からは4年にわたり毎年ファッションショーも開催。今年2月には広島にメンズ店、3月には岡山駅前にも出店と、急成長する。
アメリカのサブプライム破綻で消費マインドが冷え込む今、副社長の隆久は「売れることの自信が必要だ」という。そのためには「他では真似できない作品が詰まっている会社にしたい」という。社員は全員正社員だ。97年以降、大学新卒者のみを正社員として採用してきた。「多くのブランドを売りこなせる力が大切だから」と言う。若い兄弟4人が取り組むセレクトショップの急成長の秘密に迫る。



放送日:2009年3月22日(日)
広島市西区にある「金彩装飾」を専門とするオンリーワン企業。金屏風の商いをしていた初代久永清次郎が洋金箔(真鍮)で本金のように変色しない金紙が作れないだろうかと始めたのがきっかけ。開発には5〜6年の期間を要した。製造を始めた当初は「変色しない」ことを理解してもらうために時間がかかり実績もないことから大変苦労したという。ブランド確立のため、世界一多様な日本の金箔文化を基に、金彩装飾に特化したメーカーとして実績を積み重ね信頼を得てきた。特注金彩装飾は,様々な素材の平面・立体面・凹凸面にデザイン柄・絵画などを金彩で表現、用途に応じた保護塗装仕上げをおこなっている。古来伝統の意匠から超現代の今様まで、平面でも立体でも、様々な素材との組み合わせで未知の新しい輝きを生み出す金彩装飾技術を追う。



放送日:2009年3月15日(日)
創業者は現会長の天野辰雄。現社長の父だ。1940年、染料や工業薬品の販売を始めた。戦後になって昭和22年、天野実業を興した。染料技術を武器に、私財を投じて食品の染料「カラメル」の工場を作った。そして1957年日本初のカラメル粉末化に成功。これを契機に粉末製品製造技術の開発へと進んだ。現社長の肇は京都大学に学び、1964年帰郷、天野実業に入った。製造と品質管理を担当した肇は、1968年、真空凍結乾燥食品の有効性に着眼し本社工場に真空凍結乾燥機を設置、凍結乾燥(フリーズドライ)食品開発を始めた。しばらく苦労したが、当時急成長していた日清食品がカップラーメンの具材に凍結乾燥のエビや豚肉を使ってくれたことで、凍結乾燥事業が軌道に乗り、天野実業は飛躍した。最初は薬品会社のお土産代わりに使ってもらった「凍結乾燥みそ汁」も人気が出た。うまいと評判だ。社業が軌道に乗った今、会社を未来にどう継承してゆくのかが肇の最大の悩みだったが、去年その解決策を決断した。天野実業の来し方行く末を見据える。



放送日:2009年3月8日(日)
製造しているのは「シャックル」と呼ばれる吊金具だ。玉掛作業やジョイント作業になくてはならないもので、ロープやワイヤーの先端に取り付けて使用する。「KANSAI」のシャックルはバリエーションに富み、使用荷重0.2tから800tのものまである。より軽く、小さく、精度よく、強く、使いやすく、そして安全性を追及した製品として、国内シェア7割、世界シェア4割と高い評価を得ている。創業は昭和18年、福山市鞆町で船具の製造からスタートした。そして次第にシャックルに特化していった。創業者は現会長の羽田年幸(75歳)、商品開発は一手に引き受けてきた。社長は長男の羽田和弘(45歳)、父の背中を見て育ち、幼いころから社長になるつもりだったという。大学の経営学部を卒業と同時に入社した。平成12年に新社屋を建設、本社を鞆から、箕島工業団地の山上に移した。数々の製品を開発してきた会長は「人ができないことをやれ」という。その精神で最近も小型軽量でしかもワイヤーを損傷しない「ワイドシャックル」を開発した。勿論特許製品だ。次代のシャックルになると確信している。今、環境の時代、「これからの企業は環境を考えた物作りなくして存続は無い」そして「職人が育たなければいいものは作れない、職人をどう育てるかが企業の力だ」と、妥協しない人づくりモノヅクリを目指す。自己資本比率99%、無借金経営を続ける関西工業の企業哲学に迫る。



放送日:2009年3月1日(日)
アヲハタ株式会社(AOHATA CORPORATION)は、竹原市に本社を置く食品製造メーカーだ。 創業は1932年。瀬戸内の豊富な柑橘類を原料に、みかん缶詰やオレンジママレードなどジャム類の製造をすることを目的に設立。当初から「アヲハタ」ブランドで缶詰・ジャム類を製造してきた。「缶詰は中身が見えないから、これを製造する人は正直者でなくてはならない」の信念のもと、保存料や着色料を使わず、良心のこもった製品をつくり続けた。また「果実加工は原料を選ぶことによって7割は決まる、残りの3割は創意工夫によって技術力を高めることだ」と、産地での良い原料選びと技術中心の経営を進めた。社訓「正直・信用・和」はこのような実践の中で培われたと5代目社長の福山は言う。食の安全が大きな課題になる中、「正直・信用・和」を合言葉に、世界に躍進するアヲハタの挑戦を描く。



放送日:2009年2月22日(日)
酒都西条の酒造会社。盆地の西条は、冬の厳しい冷え込み夏の涼しい気候が酒造りに適していたため、古くより酒造りが産業として発展した。1623(元和9)年にこの西条で賀茂鶴の前身「小島屋木村家」が、清酒の醸造販売を始め、1873(明治6)年、酒名を旧地名、賀茂郡の「賀茂」と、気高い瑞鳥の「鶴」とあわせ「賀茂鶴」と命名したという。第一期創業は元和9年。第二期創業は明治6年9月9日。吟醸酒造りの先駆者として銘醸地広島を代表する、全国的にも著名な清酒メーカーである。1907(明治40)年、全国清酒品評会一等賞入賞に始まり、全国新酒鑑評会最高位金賞を22回受賞という実績を持ち、『品質の賀茂鶴』として知られる。
スローガンは「すべては最高のために」。企業の拡大化と共に、様々な事業を始める酒造業者も多い中で、賀茂鶴酒造は一貫して日本酒の製造のみで企業を成り立たせている。老舗酒蔵の歴史と未来展望を描く。



放送日:2009年2月15日(日)
1919年(大正8年)創業の広島のハムメーカーだ。今年平成21年は創業90年になる。小さな精肉問屋からスタートし、現在では年商300億円を超える企業に成長した。
社長の中島修治は「創業以来お客さま第一に食文化の創造、提供に努めてきた。そのことが結果的に評価され現在がある」と言う。平成8年8月8日を新生・福留ハムの「心の誕生日」とし、「福の日」と命名した。1999年・創業80周年では、これを期に「社員憲章」を制定した。中島は「21世紀に、この母なる地球(ガイア)に末永く福が留まり続けることを念願とし、"食に福あり"を基本の心に『世に福を招く会社づくり』にチャレンジしていきたい」と目標を定めている。90年に及ぶ歴史と品質に対する挑戦を描く。



放送日:2009年2月8日(日)
古川製作所は包装機、真空包装機、充填機など、包装機の専門メーカーだ。社長は2代目。創業者の父は大和町出身。戦時中は航空機のパイロットだった。機体の整備なども行った。戦後、その経験を生かして包装機の会社を興した。研究・工夫を重ねて、昭和32年、第一号包装機が完成した。それが大ヒットした。昭和37年の回転シール機もヒット商品になった。株式会社化して更に研究を重ねた。そして昭和47年にはロータリー式真空包装機を完成、4年後海外にも輸出を開始した。開発の源は「アイデア」だった。あらゆる時を利用して研究を重ねた。時には木の枝で砂にアイデアを図示し「これを作れ」と指示した。輸出は最初から「円建て取引き」だった。それほどクライアントから品質が認められていた。為替変動に影響されない体質を築いた。そして創業50年が過ぎた今、2代目社長・古川雅章が指揮を執る。食品・医療関連品・工業製品等、各種包装機械の製造・販売を手がけ、あらゆる包装ニーズに対応する。価値観の変化と市場のグローバル化が急速に進む今、世界への視点を強める。日本・欧米への納入実績を誇るOLD RIVERS(古川)ブランドの製品をより多くのユーザーに理解してもらいたいと、包装システムから流通形態までトータルで提供する取組みをすすめる。資源の再利用・エコロジーなど、人と社会を取巻く環境変化への対応も。「幸せはまず周りの幸せから」との目標が成長の活力だとして、「FURUKAWAの技術で幸せな未来を創り出す」を合言葉に技術開発にとりくむ。自己資本率90%を超える超健全な企業体質を作り上げた源泉に迫る。



放送日:2009年2月1日(日)
現社長・和田隆雅は昭和62年に就任した。創業者の父は、元満州鉄道の技術者だった。戦後、広島市旭町で国鉄の機関車などの修理を始めた。これが会社の始まりだ。タバコ製造プラントを開発し、一時は年間4・50億円の売上があった。しかし、昭和60年を境に一気に需要がなくなった。この頃から自動車ボディのスポット溶接装置を開発しマツダなどに納入した。しかし、車台の共通化などで、売上は減少した。しばらく頑張った。しかし、和田が社長に就いて14年後の平成11年、やむなく400人居た従業員の内100人をリストラせざるを得なかった。結局、自動車製造装置は平成19年9月に完全撤退した。ここまでつづけたのは「社員をこれ以上切りたく無い」との強い思いがあったからだと和田は言う。そうした中、昭和53年ころから次第に拡大した印刷機械が社業の中心になってきた。技術力は印刷機の分野でも「オンリーワン技術」に収斂した。「小さくてもいいからトップに」を合言葉に、自社開発にこだわり、メカにこだわった。金属用印刷機や、グラビア印刷機、冷凍食品包装用フィルム印刷機などを相次いで開発した。金属印刷機は世界の50%、グラビア印刷機も国内の30〜40%のシェアを誇る。社長の和田は言う「変わり身は早く。長く続けるものは長く」と。搬送用機械メーカーから、塗工機(コーティングマシン)と印刷機に特化し、現在118億円の年商がある。技術・頭脳を売ることにこだわる技術会社の57年を描く。



放送日:2009年1月25日(日)
株式会社三宅は、今から81年前の大正6年6月、手縫針の専業メーカーとして広島で創業した。創業以来50年間は日本のトップメーカーとして、縫針の輸出に貢献してきたが、昭和47年から、流通業界向けの値札製造を開始、その後10年間で印刷業へと事業転換に成功した。現在は、バーコード、データキャリアを中心とした情報媒体のシステムメーカーとして国内外の企業との提携を推進、グローバルな展開を図る。自社開発のバーコードプリンタ、セキュリティシステム、次世代情報伝達の担い手スーパータグ、などの事業を推進する。「挑戦と創造」を合言葉に「常にお客様の高い満足度を実現する」ことを目指す三宅正光社長の奮闘を描く。



放送日:2009年1月18日(日)
始まりは昭和28年、日本初の木材チップ製造からだった。もとは酒樽製造会社だった。しかし容器がビンに変わり需要はなくなった。破産寸前だった。チップ製造はうまく行ったかに見えたが束の間だった。安い輸入チップが入るようになったからだ。外材の製材を始めた。製材としては後発だった。良質な住宅には木材の「乾燥」が大切と知り、赤字になっても「乾燥」をつづけた。やがて品質の良い乾燥材が求められるようになった。他社に先駆け、ベイマツの産地である北米と自社工場を大型原木船で直結、住宅構造用部材の「乾燥材」、「集成材」、国産スギとベイマツを組合せた「異樹種集成材」を開発、生産した。そして、全国に即納体制で供給しはじめた。設備投資を続けた。住宅の設計図を基に構造材の接合部をあらかじめ工場で切削する「プレカット加工」も始めた。
現在、「チップ・製材量・乾燥材」では日本一の生産量を誇る。社長の堀川保幸は「常に5年〜10年先を見て経営する。木材は有効に使えば多くの熱量をまかなえる。自然にやさしい地産・地消型への転換を図っていきたい。」という。高品質な住宅づくりを支えつづける中国木材の歴史と今を見据え、未来を展望する。



放送日:2009年1月11日(日)
デジタル技術の発達とともに、写真の世界も「フィルム」から「デジタル写真」へ大きく転換した。アスカネットは「デジタル画像」が簡単にインターネットを通して送受信できることに着目し、平成4年に画像の通信加工業務を始めた会社だ。デジタル化の進行とともに、業務は拡大し、平成12年には個人向け写真集(マイブック)製作事業の企画開発を開始。インターネットを通して簡単に自分の写真本を発注できるソフト開発も自社で手がけた。そして、これが大ブレイクした。アメリカでもアスカブックサービスを開始、その技術は海外からも高く評価されている。社長の福田幸雄は言う「最新のデジタル技術を用いて、ブロードバンドインフラを使用して受発注する。総て受注生産であり、在庫を保有しない。」「他社に無いビジネスモデルを開発から行い、グローバルに展開する。」「全社員がチャレンジに参加でき、なおかつ楽しいこと。お客様に価格の数倍の感動を与えること。これが我が社のモットーだ」と。新しい視点で写真文化を創造するアスカネットのとりくみを追う。



放送日:2009年1月4日(日)
今年四月にスタートした番組「広島発!夢の通り道」は、独自の展開、新たな視点で広島から世界のブランドを目指す企業に注目し、各企業が歩んできた過去、現在、未来に描く“夢”をドキュメント(年内に放送する企業は38社)してきました。そして、示唆に富んだ“広島発”のさまざまなキーワドがこの不況を乗り切るヒントと勇気を与えてくれました。
広島に暮らす私たちが今、最も関心があり期待を寄せている大型プロジェクトといえば夢のボールパーク「新球場」の建設です。そこで「広島発!夢の通り道スペシャル」として、平成21年4月オープンに向けて急ピッチで工事が進む「愛称・MAZDA Zoom Zoomスタジアム 広島」の建設現場で活躍している広島県内企業の取り組みと“夢”を紹介します。


