
放送日:2008年12月28日(日)
ツボサン株式会社は、1928年設立のヤスリメーカーだ。「ツボ」とは「ヤスリ」を表す屋号だったという。「サン」とは「3人兄弟」のこと。その昔、3人兄弟で始めたのがツボサンのヤスリ製造だった。ヤスリは物を削り、形を整えることのできる道具。社長の梶山は「人間の感性を余すところなく表現する血の通った工具だ」と言う。そのことがヤスリを作り続けてきたツボサンの気概でもある。現在、被切削物は広い分野に渡り多様化している。製造するヤスリは実に600種類にも及ぶ。国内シェアは4割。「ヤスリは世界共通の規格であり、世界どこにでも売れる。モデルチェンジも無い。ボーダーレスに合うように、即納体制の整備が強みにつながる」と梶山は在庫主義をとる。そして目線は世界を見つめる。また、梶山は「デジタルの時代にあって、やすりはアナログな道具だ。モノヅクリの基本工具としてとらえたい。やすりで磨いた物体の誤差1ミクロンが手触りでわかることが、モノヅクリの基本であり、それは可能なのだ。」と言い切る。そして、今後は、「よく学び、よく遊ぶ」をテーマに、耐久性・耐磨耗性に優れた製品を開発・製造し、さらなる品質向上を達成したいと研究をつづける。呉市仁方にヤスリを残したいと「この分野で一番になること」を目指す企業の挑戦を描く。



放送日:2008年12月21日(日)
道路の側溝などの蓋に使用する鋼製格子板「スチールグレーチング」の国内トップメーカー、ナンバーワン企業だ。1951年の創業以来、さまざまな製品の提供を通じて、人々の暮らしを快適にする環境づくりを目指してきた。21世紀に入り「地球の豊かな自然を残すこと」が人類の課題としてクローズアップされ、「お客様のニーズに応えることだけでなく『地球のニーズ』にも応えていく」ことが大目標となった。このニーズに応えるために、のり面の補強と緑化が同時に可能になる『グリーンパネル』や、各種プラントでエネルギーの有効利用に大きく貢献する『スーパーアルミフィンチューブ』などを開発「環境貢献」の姿勢を鮮明にしている。これらの製品開発は、60年に及ばんとする経験と実績、積み重ねてきた技術力と失敗を恐れず常に挑戦しつづける風土に支えられている。伝統に培われたこだわりの技術力と変化をチャンスととらえ積極果敢に挑戦する風土がダイクレの力だ。
『人にやさしい』『地球にやさしい』をキーワードに、未来を目指すダイクレの歴史と今を描く。



放送日:2008年12月14日(日)
創業以来"火と熱"の専門技術会社として、省エネルギー・省力・省資源およびリサイクル技術をベースとする「工業炉」ならびに周辺設備の設計、施工、メンテナンス等、エンジニアリングの事業を展開してきた。一般にはあまりなじみの無い会社だが、私たちの高度工業化社会の根っこを支える技術を開発してきたオンリーワン企業だ。1949年の創立以来、戦後の日本の技術立国と高度経済成長を支えてきたと言っても過言ではない。広島市東千田町からスタートし、現在はスペインと中国にもグループ企業を持っている。万代峻社長は「火と熱についてのあらゆる問題に挑戦し、より豊な社会のために、あらゆる分野にすぐれた技術と商品を提案して来た。今後ともこの使命感と誇りに燃えて"火と熱"を永遠のテーマとしてとりくんでゆきたい」と話す。火と熱にかける企業の夢を追う。



放送日:2008年12月7日(日)
来年80周年を迎える呉市の老舗企業。米屋から出発し、麹の生産販売を手がけた。そして戦後味噌作りを始め昭和40年に株式会社化。テレビ時代とともに「お母さんの味シリーズ 麦味噌・米味噌」で成長してきた。今日、味噌は世界中で認められた健康食品。味噌を中心とした日本の食生活にも注目が集まっている。そうした中「ますやみそ」は平成13年、全国の味噌メーカーでも数社しか取得していない「有機JAS工場認定」を取得。日本だけでなく世界中のより多くの人々に、豊かで健康的な食生活を提案し続ける。
日本の、健康で季節の彩りにあふれた食生活を世界中の人々に届けたい、世界のいろいろなふるさとの味を日本の人々に伝えたい、社長の舛本知己はそんな思いを「ますやみそ」の食品ひとつひとつに込めたいという。アメリカの大学で国際経営学を学び「経営学修士」の称号を持つ舛本は今「世界に味噌を浸透させたい」と熱望する。その奮闘を描く。



放送日:2008年11月30日(日)
キャステムグループは精密鋳造部品の受注販売を主軸に、国内と東南アジア圏に事業展開するグローバル企業だ。高品質、低コスト、短納期、多品種、小ロットと、業界のうねりが激しさを増す中、社長の戸田は「常にクライアントに最高の価値を提供し続ける企業を目指す」と言い切る。若い人たちへの技術継承・モノヅクリの心の継承が危ぶまれる今、キャステムグループの「モノヅクリ」にかける情熱は、新世代の人材育成にも及ぶ。代表例は「折り紙ヒコーキ関連部署」だ。1枚の紙から大空を舞うヒコーキが生まれ、わずかな工夫で様々な軌跡を描く……。そんな小さな感動が、子供達を未来の優れた技術者へと導く……戸田社長が紙ヒコーキに情熱を傾ける所以だ。小さな町工場から「モノヅクリ」を生み出す企業へ、業態を大転換しながら進化し続ける企業・・・それがキャステムだ。「大きな事業転機を実感しながらも、『クライアントの最良のパートナーでありたい』という思いは常に変わりません。」と戸田社長。「モノづくり」の夢にかける企業の姿を追う。



放送日:2008年11月23日(日)
一年を通じてさまざまな果物を堪能できる、平田観光農園は、まさに“フルーツの森”。広島の有名な観光農園として、子どもからお年寄りまで多くの人で賑わう。この農園を始めたのは現在の平田克明会長。1984年に開園、24年間「都市と農村の交流」を目指し運営してきた。克明の父は戦後松を切り尽くし木が無くなった山で、仲間を10人とともに、1haの山を開墾、りんご栽培を始めた。しかし、仲間は次々に脱落した。昭和15年生まれの克明はそんな父の苦労を見て育った。鳥取大学の農学部を卒業、長野県でぶどうの栽培を学んだ。請われて広島県の職員となったが、昭和59年に「親孝行のため」と三次に戻ってきた。それから「上田町の過疎地を人でにぎわう町にしたい」と目標を定め、10haのぶどう園と父が残したりんご園で観光農園を始めた。平成3年の台風19号では、20万個のりんごが全部落下し、ぶどうも倒壊したが、「台風が来るまでに収穫できるものをつくればいい」と諦めなかった。平成4年には加工場も作った。今は11ヘクタールの農園を年中無休で運営する。サラリーマンだった息子も4年前に帰ってきた。去年8月には息子に社長をバトンタッチ、自身は会長に就いた。そして今、地域の人たちと連携しながら農業の未来を見つめる。平田会長の”フルーツの森”にかける夢を追う。



放送日:2008年11月16日(日)
明治11年創業、今年で130年になる老舗企業だ。戦後「飴菓子」「豆菓子」を製造したきたが、平成8年に豆菓子製造はやめた。来年には飴菓子もやめる。穀類の高騰で採算が合わなくなったからだ。替って昭和49年から製造販売を始めた「生姜湯」などの粉末製品が今は売上の90%を占める。菓子問屋への販売から食品問屋への販売へ、販売ルートも大転換した。この大転換を支えたのは、国内産原料に特化して生産してきた実績だ。しょうがの生産は地元の農家と契約、ゆず、カボス、いちじく、はっさくなども近くの生産農家から仕入れる。「地産・地消」国内産の原料に特化することで、消費者の期待に応える。次への展開は、粉末製品や地元産の産品を活用した「缶詰・瓶詰」の開発だ。“事業とは、お客様の要求を満たすものである。商売とは、人の心の美しさを出し尽くし業である。”この言葉をモットーに未来をみつめる今岡社長の奮闘ぶりを描く。



放送日:2008年11月9日(日)
国内筆の80%を生産する筆の町・広島県熊野町。ここには100社を超える筆工房がある。その中で白鳳堂は、月産約50万本の生産能力を有する大手化粧筆メーカーとして業界をリードしてきた。また、国内外の大手化粧品メーカーやメイクアップアーティスト系ブランドに化粧筆のOEM供給も担ってきた。「こういう用途に使いたい」「こういうグラデーションを表現したい」その機能を満たすため、毛の特質を深く理解し、選りに選って良い毛だけを使う。そして、目的にふさわしいサイズとボリューム、カタチを設計する。それが白鳳堂の筆作り。そして何より、毛先を切らず、たんねんに揃えること。毛先を活かすのが筆、切り揃えるのがブラシ、という考え方のもと、「筆―FUDE」という言葉にこだわる。白鳳堂の伝統技術と次の夢を語る。



放送日:2008年11月2日(日)
創業大正13年。出原安太郎が広島県芦品郡新市町に合名会社自重堂を設立、自重堂という社名は自尊、自愛、軽はずみを戒める意味で付けられたという。作業服、学生服用小倉地の製織を開始した。戦時中には海軍に軍服を納めた。早くから洋服を重視したのは安太郎の「これからは洋服が必要」との強い思いからだった。以来「衣の夢づくり暮らしづくり」を基本理念に「衣服」の製造・販売を行ってきた。現在の社長・出原正博は創業者から数えて6代目。今では、ユニフォーム・メンズカジュアル・医療用白衣・セーフティスニーカーの企画・製造・販売を行うリーディングカンパニーだ。「個性溢れる品質の良い商品の開発」「納期厳守」を掲げ、「素材発掘」「新鮮且つ価格訴求力のある商品の開発」を目指す。今、自重堂のユニフォーム生産は海外が80%だ。「常に一歩先を歩むことが大切」と、時代を見据えたグローバル展開、新規事業への進出、販売チャネルの多角化を進める出原社長の奮闘ぶりを追う。



放送日:2008年10月26日(日)
戦後間もない昭和27年(1952)、JMSの創業者であり医者でもある土谷太郎の父、土谷剛治らが株式会社広島血液銀行を設立。父亡き後、社長となった土谷太郎は輸血による副作用防止の研究を進めるうち、アメリカではすでに医療機器のディスポーザブル化が進んでいることに注目、昭和40年(1965)ディスポーザブル医療機器の製造販売会社「株式会社日本メディカル・サプライ」(後に株式会社ジェイ・エム・エスに改称)を設立。以来、「より優れた医療機器の開発・提供」を目指してきた。JMSは今、「患者様第一主義」を地球規模で発想、国際戦略を展開、欧米、東南アジア、中東、南米、アフリカなど世界数十ヵ国に製品を輸出するグローバル企業だ。「患者様のために」を合言葉に「何が出来るか」を追求、医療機器開発にかける姿を追う。



放送日:2008年10月19日(日)
明治26年(1893年)貝原助治郎が芦品郡新市町常で手織正藍染絣製造を個人創業したのが始まり。今年で115年になる老舗企業。戦後の昭和26年、織機34台をもって貝原織布株式会社を設立、液中絞り自動藍染機や、36インチ幅広絣、世界初の48インチ幅絣入りサロンなどを開発した。しかし、絣の需要減 で、デニム生産に転換。昭和45年にはチーズ染色法によるインディゴデニムを初出荷し、更にロープ染色によるデニムを日本で初めて市場に供給した。昭和 51年にはロープ染色月産10万反達成、国内で75%のシェアを獲得した。昭和40年代後半から、高宮・上下・君田・羽須美・服部・新市・福山・吉舎に相 次いで工場を建設、更に昭和50年代にはこれらの工場を充実強化していった。平成3年社名を「カイハラ」に変更。ポンド切り下げ(昭和42年)、日米繊維交渉(昭和46年)など、何度も経営の危機に遭遇しながら、現在はデニムで世界のトップブランドと評される。その歴史と今後の夢を描く。



放送日:2008年10月12日(日)
日東製網(株)は、漁業用・陸上用の無結節網を主体に世界をカバーする網メーカー。現在の網は単に丈夫なだけでなく、“地球に優しい”という新たな機能が求められており、日東製網では「天然素材100%の紙」を使用した、高「無結節網」を世界に先 駆けて開発。2004年からJ1リーグのサッカーゴールネットとして採用されているほか、他のスポーツネットや農業資材としても注目されている。また、地球周回軌道上にあるデブリ(故障・廃棄された衛星やロケット・宇宙ゴミ)を除去するため、無結節網技術を活かし、JAXAと共同でデブリ除去システム開発に取り組んでいる。更にショッピング用の網も作った。1910年創立、今年は創業98年。去年1月先代から引き継いだばかりの、4代目若社長の未来への取組みを追う。



放送日:2008年10月5日(日)
「人生に潤いを与え、生活にゆとりと豊かさを与えてくれるお酒は、単なる嗜好品ではなく『文化』を持っている」というのが白井龍一郎社長の持論だ。水と実り、そして発酵……どれをとっても自然の作用だ。この自然の作用に人が働きかけて生まれる「酒」。まさに自然界からの賜り物と言える。自然の恵みと人間の感性の調和には熟練した技術が必要になる。変えてはいけないことと、変えなければいけないこと。このバランスと調和に納得できる酒造りの秘訣がある。創業90年、老舗酒造会社の今を追う。



放送日:2008年9月28日(日)
天保2年(1831年)創業。鋳物づくり170余年の長い歴史がある。鋳造技術を通して社会に貢献してきた。現在、鋳物ホーローバス製造では国内のシェアナンバーワン企業だ。ヨーロッパの技術を参考に、乾式ホーロー技術を完成させ、色も豊富で付加価値の高い風呂を開発した。なべ、釜から始まり、五右衛門風呂から産業機械関連部品へと時代のニーズに合わせて製品の転換を果たしてきた。9代目になる田中保昭社長が就任したのは昭和58年(1983年)。2002年、鋳物需要の低迷で、売上はピーク時の半分まで落ちた。どうそれを乗り越えたのか?老舗企業の改革マインドを追う。



放送日:2008年9月21日(日)
明治42年山口県長門市で創業、地域の軍隊に羊羹を納入した。高級羊羹だった。関東軍の満州進攻にあわせるように軍の指定工場として満州に進出した。終戦で一切を失い命からがら引き上げ、広島市天満町に出た。そして、再び羊羹を作った。一般の商店にも卸しながら、当時の警察予備隊にも出した。あの高級羊羹の味だと評判だった。商売は好調で、東京・大阪の自衛隊にも納入するようになり、観音町に工場も作った。いつしか、羊羹だけでなく、自衛隊の携行食糧や災害時の非常食などを一手に引き受ける会社になっていた。今、43歳の若き4代目社長が365日出荷体制の指揮をとる。知られざる企業の波乱の歴史と今を描く。



放送日:2008年9月14日(日)
ヒロボー松坂敬太郎社長は紡績メーカーの3代目。入社した時、日本の繊維業界は不況にあえいでいた。入社早々の倒産の危機。「世界一のモノをつくるしかない」と紡績業から全面撤退して目指したのはラジコンヘリ。劇的な転換だった。3代目の道楽と幹部社員から猛反発を受けたがやり通し、現在世界のトップシェアを誇っている。室内で楽しめる全長36センチの無線ヘリ、農薬散布用の小型ヘリ、電力会社の送電線を巡視・点検する自律飛行型無人ヘリなどホビーから産業用まで活躍の場は広がっている。無謀とも思える業態転換を決断させたもの、成功までの苦難の日々、その日々を支えたもの…。それはまさしく「夢の通り道」。いま松坂は次の世代にバトンタッチしようとしている。「物は引き継がさない。精神を引き継いでほしい」「儲からないものをつくれ」。数々の松坂語録とともに、その壮大な復活劇と未来に膨らむ夢を伝える(府中市)



放送日:2008年9月7日(日)
昭和26年創業、2年後「にしき堂」として発足した。当時は炭火で饅頭を焼いた。「ガスで焼けないか?」誰もが出来ないと否定する中、現会長の大谷照三は自分で開発を決意。ついには「自動もみじ饅頭焼き機開発へとつながった。2代目大谷博国社長は「食のモラルが崩れている時代、今最も大切なのは「食の安全」だ。」と言う。そのために、先頭に立って工場整備を行ってきた。365日営業、多いときには1日30万個の製品を作る、広島発全国版和菓子づくりの現場とその理念を追う。(広島市)



放送日:2008年8月24日(日)
明治43年創業、福山の老舗醤油会社。県内の醤油製造会社は一時300社近くあったが、次第に少なくなり、現在は約70社。経営も独立独歩から協力体制に変化してきた。創業以来伝統の味にこだわってきたアサムラサキの主力製品も14年前に開発した「かき醤油」が4割を占めるまでになった。いわゆる「醤油」は僅か2%だ。藤井直彦社長は「消費者の嗜好変化のスパンが早くなった。早いタイミングの商品開発が欠かせない。」と言う。5代目社長の奮闘ぶりを追う。(福山市)



放送日:2008年8月17日(日)
創業1917年。福山市沼隈町の企業。1万人以上の従業員が働く。
近年、造船業でも、韓国、中国などが台頭してきたが、常石造船は、1994年からフィリピンのセブ島に2003年からは中国に造船所を建設するなど、他の国内中・大手造船所とは一線を画した国際戦略で価格競争に取り組んできた。
かつて、1990年頃の造船不況下、レイオフ無しで乗り切った。「社員の幸せのために」が企業理念だ。現在、2010年に向けITを活用した新しいマネジメント・スタイルの確立に取り組む。1998年に代表取締役に就した39歳の若き社長、神原勝成氏の奮闘ぶりを追う。



放送日:2008年8月10日(日)
昭和28年創業。廿日市市にある企業。「刃物」と「機械」の一貫生産から、「ダイヤモンドカッター」と呼ばれるコンクリート構造物の切断穿孔用機械を開発、関連消耗品も合わせて製造販売している。機械・刃物の両方の製造ノウハウを蓄積しているの は、日本ではシブヤだけだという。なぜ両方を生産するのか?との問いに「より良い製品を自社の責任において提供するため」と応える。「事業活動と係わりのあるすべての人の幸福を追求し、社会の健全な発展に貢献する」を合言葉に「世界中から注目されるコンクリート関連機械工具の総合メーカーを核とした、誰もが働きたいと思うコングロマリット」を目指す。



放送日:2008年8月3日(日)
広島に本社を置く建設機械メーカー。広島の油谷重工と神戸製鋼所が統合して、1999年、コベルコ建機が出来た。日本で最初のパワーショベルを開発した技術力のDNAを受け継ぎ、先進的な機器を生み出してきた。最近ますます需要が増す中国市場へも進出した。
また、環境分野での市場創造にも積極的に取り組み、環境リサイクルメニューの拡充や環境をキーワードに開発した独創的、革新的新技術も推進し、間近に迫る第4次排ガス規制への対応、高騰を続ける燃料対策としての省エネ推進を追及している。
世界中に広がる顧客との『信頼の輪』を一層拡充しようと挑戦している企業の姿を描く。



放送日:2008年7月27日(日)
1949年三島商店として創業、来年60周年を迎える。1961年三島食品鰍ノ。350億円市場といわれるふりかけ業界第3位、業務用ではトップだ。米食離れの逆風が吹く中、混ぜご飯用レトルト食品など新製品の開発やアメリカ・ヨーロッパなど海外市場にも進出。中国でも100%出資会社を作り巨大な胃袋に挑む。ふりかけ「ゆかり」の原料確保のため、おととし10月、北広島町で5・1ヘクタールの農地を借り赤シソの生産を始めた。原料の生産に挑戦するのは初、企業として農業に参入する試でもある。旧芸北町は三島豊社長のふるさと。三島はこの挑戦で多くを学んだという。最近では高齢者用のレトルト食品開発にも乗り出した。「多くの人に喜ばれる食材の開発」を目指し挑戦する企業の姿を描く。(広島)



放送日:2008年7月20日(日)
いいものだけが残っていく「質の時代」に入ったといわれるコンビニ業界で年商100億円を売上げる弁当メーカー・デリカウイング。企業理念の芯に「Happy Together」を掲げ、何より地域や家族を大切に考える企業を目指す。社長の細川匡(ほそかわ・ただし)は「社長が夢を抱かないで社員が夢を持てるはずが無い」と言う。36歳で社長になり、還暦を迎えた今日まで、ずっとそう思い続けてきた。「夢を抱いたからこそ今が実現できた。夢を抱き懸命に夢を追えば、夢は必ず実現する!」が細川の信条だ。今、細川は、関連するみんなが幸せになる……「Happy Together」を追い続ける。細川社長の「絶対やり遂げる覚悟の企業人生」を追う。(廿日市市)



放送日:2008年7月13日(日)
創業は大正3年。社名は「萬国製針商会」。世界の隅々まで針を売るとの決意を込めた。広島は針の産地。しかし時代に翻弄される。原爆投下から立ち直り、輸出の花形になった針産業は1985年のプラザ合意による円高で国際競争力を急激に失った。縫い針以外に新しい需要をどう生み出すのか。苦悩が続いた。注射針分野への進出。マイナスイオンを発生させる電極針の開発。針作りで培ったミクロの技術が未来を開く。伝統産業の今に密着する。(広島)



尾道に寄寓し、「暗夜行路」を書いた志賀直哉の好物は蒲鉾だった。その蒲鉾は大正2年に尾道で創業した桂馬が作ったもの。創業以来こだわり続けるのは内海産の小魚。保存料や添加物は一切使わない。「かみしめると海のイメージが浮かぶ。そんな磯の香りがするかまぼこ作り」が掲げる理想。それを今も守り続ける。かまぼこの需要は減少傾向にある。原料の漁獲減少と値上がりが経営を圧迫する。早朝から加工場に立つ村上博志社長(51)は老舗の味を守りながら次の一手を模索する。(尾道市)



ソース業界で全国2位のシェア。だがお好みソースは「オタフク」が定着。創業は酒や醤油の卸小売業。戦後ソースに乗り出した。後発ゆえに卸商に相手にしてもらえない。専ら商売相手はお好み焼き店の店主。その会話の中からお好みソースは誕生した。その誕生秘話と6月にオープンするお好み焼き記念館「Wood Egg」からの情報発信を軸に、日本の誇る日本食に挑戦する社長の姿を追う(広島)



原爆で倒壊した書店を整理していたら最初に見つけたのが「書類販売許可書」だった。書店を続けるべきとのお告げだと思えた。父から聞いたこんなエピソードを語るのはフタバ書店の世良與志雄社長(52)。紀伊国屋、ジュンク堂、TUTAYA、ブックオフ…。次々に広島に進出してくる競合店との戦い。いま本のリサイクルにも取り組む。「書店を見れば地域の文化度が分かるといわれる。フタバに行けば新しい出会いがある」。そう思ってもらえる志のある書店を目指して世良社長の奮戦が続く。(広島市)



社名は世界最高峰エベレストの隣にある高峰ローツェに因んだ。世界一を支えるような企業になりたいとの夢を託した。パソコンなど電子機器に欠かせない半導体工場でシリコンウエハーを次の工程に運ぶ搬送ロボットで世界3位のシェアを誇る。その歴史はプレハブ小屋から始まった。「他社にないものを作るのがベンチャーの生きる道」。これが信念だった。「トップにならんと面白くない。世界と競争できる備後地方にしたい」。ふるさとへの思いも熱い。(福山)



尾道にクリーニング屋や病院、コインランドリーなど業務用洗濯機の生産で国内トップを走る企業がある。山本製作所である。創業は昭和22年。船舶部品などの機械修理だった。たまたま工場の隣がクリーニング屋だった。洗濯機の修理を度々頼まれた。それがきっかけで業務用洗濯機の製造に乗り出した。部品製造から完成品作りまで全て自前を信条に国内シェアトップを維持する。(尾道市)



府中市はかつて「府中家具」の名で全国の注目を集めた。桐箪笥の婚礼家具が中心だった。しかし生活様式の変化や安価な海外製品の流入で、1980年をピークに一気に低迷の道を辿り始めた。廃業する業者も相次ぎ、最盛期の3分の1、24社になった。
そんな中で異彩を放つのが独自路線を歩む松創。大衆家具に見切りをつけ、最高級家具に照準を定めた。松創は江戸末期の創業。守ってきた手仕事にいまもこだわる。原材料の木材も最高級を求める。そして他の家具会社には出来ないオンリーワンの製品を目指す。そのこだわりがクルーザーや個人用ジェット機の内装家具の受注につながった。
「強者が生き残るのではない。時代に応じて変化できるものこそが生き残れる」。松創・松岡佳二社長の言葉だ。(府中市)



始まりは企業ロゴを表示する金属ネームプレート作りだった。「少量・短納期・低コスト」の厳しい環境の中から独創的な製品作りのノウハウを培った。パソコンや携帯電話を制御する電子回路の材料、プリント基板の加工に欠かせない研磨機を日本で始めて製造。いまや世界の50%を生産する。蓄積した金属加工技術が花開いた。研磨、表面加工技術へのこだわりの中で成長が続く。ハイテクの時代、ローテクのネームプレート製作も大切に守り続ける。創業の精神が息づく企業の今を訪ねる(福山)



全国で3000社以上が生産し、その苛烈な価格競争から「カイワレ戦争」と呼ばれる時代があった。国内シェアの4割を占めたのが広島に本社を置く村上農園。カイワレ業者を突然の悲劇が襲った。1996年夏の病原性大腸菌O-157による集団食中毒だ。犯人探しが続き、当時の厚生省はカイワレが原因と断定した。村上農園も農園を閉鎖し、社員の一時帰休せざるを得なかった。倒産の危機。それから2年後、ブロッコリーの芽にガン予防効果の高い「スルフォラファン」が分かった。その研究に着目。スプラウトと名づけて売り出した。悪夢からの復活が始まった。そしていま世界一を目指すという。その戦略とは……。(広島)


学校法人鶴学園が経営する「広島工業大学付属中学校・広島高等学校」はこの春、「広島なぎさ中学校・高等学校」に校名変更される。そこには私学経営のどんな戦略があるのか。
鶴学園は小学校から大学まで7校を擁する総合学園。校祖・鶴虎太郎の遺訓「教育は愛なり」を継承した鶴襄名誉総長、そして現在の鶴衛理事長。私学が広島にもたらした教育の成果と私学経営の理念とは……。教育に対する期待の大きさと少子化がもたらす私学経営の苦悩。鶴学園がめざすものは……。(広島)



公園に設置された大型遊具に子供が歓声をあげる。遊具をめぐる話題が盛り上がる。だがその遊具を作ったのはどの会社かは口の端には上らない。遊具メーカーの宿命だ。子供たちの笑顔を励みに年間1,000台以上の遊具を手がけるタカオは国内トップクラスのシェアを誇る。ライバルとの競争に打ち勝つために問われるのは企画力。デザイナーは常に子供たちの新しい遊びを追い求める。大型遊具設置はほとんどが公共事業だが、その前途は厳しい。民間需要の拡大を目指す遊具メーカーの新しい戦略を見つめる。(福山)



簡易食品容器メーカーを創業して45年。発砲スチロールトレーでは全国シェアの40%を占める。勿論ナンバーワン企業である。時代を先取りしたポリスチレンペーパーの容器は作れば売れた。だが、体力のある大手メーカーが追随。厳しい競争にさらされた。ごみ処理問題が取り上げられる度に、発砲スチロールのトレーがやり玉にあがった。使い捨てを見直し、自らリサイクルに取り組む以外になかった。その先見性がトップの座を維持させた。小松社長は言う。「日本一になったが、経営者としては何一つ満足していない」。環境問題と向き合いながらエフピコの更なる挑戦が続く。(福山)



派手な宣伝や広告はしなくても、ヘアエッセンスの売上は年間100万本を維持するヒット商品を開発した。徹底した原料選びと試供品提供による口コミでの広がりが女性の心を掴んだ。「商品名は知っているが、それが広島で作られているとは……」。多くの女性の反応だ。個人創業から始まったヤマサキの38年の歩み。それは商品力への徹底したこだわり。今年度経済産業省の「中小企業IT経営力大賞」を受賞したヤマサキの知られざる経営戦略に迫る。(広島市内の企業)



その社名を知る人は多くない。しかし普段良く眼にする建設機械用キャビンの窓は8割がレニアス製。ポリカーボネートの成型に独自の技術を持つ。脱サラし、農機具を手がければ農業のかげり、造船部品に進出すれば造船不況。度重なる試練を乗り越えてたどり着いたポリカーボネートの成型。強烈な個性で牽引役を果たす社長の次なる目標は……。(三原市の企業)


戦時中、小さな鋳物工場からスタートして70年。
タンカーから原油を陸揚げする「カーゴオイルポンプ」の世界シェアは85%。
世界のトップ企業に駆け上った。
苦い経験をばねに社是としたのは「自社製品は総て自社技術による開発」と「顧客最優先」。
環境問題を先取りして、いま、新たなバイオ発電で世界に挑戦する。(広島市大州の企業)


